「 うなぎパイ 」










  その日の朝、僕は無性にうなぎパイが食べたくなって、目覚めた。

  「うなぎパイ、、、」 僕は思わず呟いていた。
  傍らで会社に行く仕度をしていた妻が、「えっ、なあに?」と僕に聞いた。

  妻は今日仕事で、日帰り出張で静岡に出掛ける事になっていた。
  「いや、うなぎパイが食べたいな、と思って」と僕は妻に向かって言った。妻は、 
  「えー、なあに急に。私がいくら静岡に行くからって、仕事なのよ。そんなの買ってる暇あるかどうか分からないわよ」とまだ半分寝ぼけている僕に向かって、少しイライラした様子で言った。
  「ああ、分かってるよ、でも何だか無性にうなぎパイが食べたくなっちゃったんだ」
  「もう、子供じゃないんだから。分かったわよ、うなぎパイでしょ、時間が有ったら買ってきてあげる。でも仕事で行くんだから買ってこれるかどうか、分からないわよ」
  「うん、それで構わないよ」と言ったが、本当はどうしてもうなぎパイが食べたかったのだ。しかし、そんな事を言える雰囲気ではなかったので、そのことは口には出さなかった。

  そして、仕度を終えた妻は、
  「今日は天気が良いから、洗濯よろしくね。それと、牛乳と食パンと玉子とバター、忘れずに買っといてね。あっ、それとチャームナップ・ミニも買っといてくれる?私もうすぐ生理なのよ、羽根の付いたやつだからね、分かるでしょ」
  「ああ、、」 僕はうなぎパイの事を考えながら、ぼんやりと答えた。
  「じゃあ、行ってくるわね。多分帰りは九時位になると思うから、夕食は要らないわ。勝手に食べといてね、じゃあ、行ってきます」
  「ああ、行ってらっしゃい。あっ、うなぎパ、、、」

  妻は、僕のうなぎパイという言葉を聞き終わる前にドアを閉めて行ってしまった。
  (ちゃんとうなぎパイは買ってきてくれるのだろうか、そういえば、なんで僕が妻の生理用品まで買っておかなければならないのだ。大体、羽根って何だ?僕に薬局のおねえさんに聞け、とでも言うのだろうか)と、僕は妻の居なくなった寝室のベッドの上で、煙草をふかしながらブツブツと妻に文句を言ってみた。

  その後、ベッドから抜け出した僕は、サンドウィッチを作るために、半熟の目玉焼きを焼き、ハムをカットし、レタスの葉をちぎった。そこまでした所で、食パンが切れている事を思い出した。
  (そうだった、だからこそ僕は、牛乳と食パンと玉子とバターの買い物を頼まれたのだった。ついでに生理用ナプキンまで、しかも羽根付きの)と、僕はまた一人でブツブツと文句を言いながら、パンの無い、ハムと目玉焼きとレタスのサンドウィッチを食べた。
  それから僕は、食器を片付け、妻に言われた通り洗濯物を洗濯機に放り込み、部屋の掃除をしながら今日一日の予定を考える事にした。

  僕はフリーのライターをしているのだが、昨日までの〆切の原稿を、夜中の二時まで掛かり、全て入稿したばかりだったので、今日一日は全くのフリーなのだ。
  そして妻は、水だとか土だとか水銀だとかに関連する仕事をしていて、しょっちゅう出張に出掛けていた為、家事の大半は僕が請け負うことになる。しかし、僕はそういった細かい仕事が割りと嫌いではないので特に不平は無い。それに妻の出張が多いおかげで、僕はいつでも全国の名産品を食べられるというのも悪くはなかった。

  僕は洗濯物を干し終えると、シャワーをさっと浴び、適当な外出着に着替えると、品川まで出掛ける事にした。品川に美味しいうなぎ屋さんがあるのだ。今日のお昼はうな重にすることに、さっき掃除をしながら決めたのだ。

  僕は、電車を乗り継ぎお昼少し前に品川駅に着くと、駅から歩いて五分位の所にあるうなぎ屋さんを目指して歩いた。そこのお店は、以前お世話になった編集者が連れてきてくれたことのあるお店で、お店に入るなり一目で気に入った僕は、それ以来うなぎを食べたくなったら必ずと言っていいほど、そこのお店で食べることにしていた。
  お店にはお昼少し前に着くことが出来たので、特に待たされることも無く、おいしくうな重を頂くことが出来た。僕は目の前のうな重を食べながら、今夜食べるであろう、うなぎパイについて考えていた。
  まあ、考えていたと言っても、うなぎパイを右から食べようか、左から食べようか、それとも真ん中から食べようか、という程度のどうでもいい事を考えていただけなのだが。

  それから僕はうなぎの肝のお吸い物を飲み終えると、お勘定を済まして店を出た。その後、僕は山手線に乗って新宿に行くと、紀伊国屋書店に行き、北海道のガイドブックを二種類買った。北海道全域が載っている本と、知床半島周辺に絞った本だ。
  実は今年の夏に、妻には内緒で北海道へ行こうかな、などと考えているのだ。本当は別に内緒にする必要も無いのだけれど、ただ、なんとなくだ。そしてガイドブックを手に入れた僕は、小田急線に乗り、自宅のある代々木八幡駅に戻った。

  そこで僕は駅前のスーパーに行き、妻に頼まれている買い物を済ませた。
牛乳と食パンと玉子とバター。
  それと僕は、妻がうなぎパイを買ってきてくれるお返しに、妻の好きなアップルパイを焼いてあげようと思い、その材料も忘れずに買った。それだけの買い物を済ますと、僕は行きつけの蕎麦屋に行って、つまみを注文し、それを肴に日本酒をちびちびとやった。
  休みの日の夕方、蕎麦屋で日本酒をちびちびとやるのが、なんと言っても正しい休みの過ごし方なのだ。そして仕上げにもりそばを一気に胃袋に流し込むと、僕はスーパーの買い物袋を両手に下げて、家に帰った。

  途中、何か買い忘れがある様な気がしたが、よく思い出せなかったので、まあ、いいか、と思うことにして、それよりも早く家に帰って妻の為に美味しいアップルパイを焼くことに、した。アップルパイは妻の大好物で、僕達が結婚する前にはよく妻の為に焼いてあげたものだった。

  (うなぎパイとアップルパイを物々交換、うなぎパイとアップルパイを物々交換)と、僕はブツブツ独り言を言いながらアップルパイを、焼いた。そして、あとは妻が帰ってくるまで居間のソファでビールを飲みながら、北海道のガイドブックを読んで静かに過ごしていた。

  陽もすっかり暮れ、ガイドブックもあらかた読み終わった夜の九時過ぎに妻が帰ってきた。
  「ただいまあ、ああ、疲れた。夕ご飯食べた?」
  「おかえり、大丈夫、ちゃんと食べたよ」
  「そお、洗濯と買い物はしておいてくれたのかしら?」
  「ああ、ちゃんと済ませておいたよ。ねえ、うなぎパイは?」
  「ああっ!うなぎパイ?うなぎパイの事すっかり忘れてたわ。新幹線の発車時刻ぎりぎりまで先方さんとの打ち合わせが長引いちゃって、うなぎパイの事なんてすっかり忘れてたわ。ごめんなさい。でも覚えていたとしたって、どっちにしろ買う暇なんて無かったのよ。今度釧路に出張に行くから、その時の白い恋人でがまんしてくれない?」
  「ええぇ、うなぎパイ無いの?僕は今日一日、朝からずっとうなぎパイの事を楽しみにして過ごしていたっていうのに?お昼なんて夜のうなぎパイの為に品川まで行ってうな重を食べて来たっていうのに?」
  「もう、うるさいわね、うなぎパイうなぎパイって。しょうが無いじゃない、私だって遊びで静岡まで行ってた訳じゃないんだから。大体、夜のうなぎパイの為にお昼にうな重なんてバカじゃないの」
  「僕のうなぎパイ、、、」
  妻は僕の言葉を無視して、化粧室へと消えていった。

  (ちくしょう、僕は今日一日、うなぎパイの事を考えて過ごしていたっていうに、もう絶対にアップルパイは出してあげないぞ。明日、一人で全部食べてやる) ブツブツ。

  「ああっ!」 妻が化粧室の方で大きな声を出した。
  「ねえ、あなた、チャームナップ・ミニ買ってきてくれた?羽根付きの。やっぱり生理になっちゃったみたいなの」
  そこで僕は、はっとした。僕が買い忘れたと思っていたのは、妻の生理用品だったのだ。
羽根付きの。
  「ねえ、あなたってば!」
  僕は妻の言葉を無視して、
  (大体、なんで生理用品なんて僕が買わなくちゃいけないのだ。羽根付きだか凧上げだか僕の知ったことではないのだ。うなぎパイも買ってこなかったくせに、、、)と、ブツブツ独り言を言いながら、僕は寝たふりをする事にした。 

  口ではまず、妻には勝てっこないのだ。