「 ウブドの夏 」









  彼の名前は斉藤洋平といった。
洋平の身にその不思議な出来事が起こったのは去年の夏のことだった。それは洋平が両親と一緒に夏休みの旅行でバリ島のウブドに滞在していた時に起こった。
  洋平は、普段は東京の足立区にある家の近所の小さな町工場で雑用のような仕事をしていた。その仕事は洋平の父親が見つけてきたのだが、父親の古くからの友人が経営している工場で無理に、というかお情けみたいな風にして雇われているのだった。その工場では自動車のシートベルトの金具の部分を専門的に作っていて、洋平はその中でも最も単純な工程を担当していた。それは、中学校を卒業していれば誰にでも出来るような簡単な作業内容だった。そして実際、洋平は高校を中退していたのだった。   洋平は小学校の頃からほとんど友達という友達がいなかった。というのも洋平は生まれた時から少しだけ体が小さくて、小学校に上がる頃になると明らかに周りの友達に比べ運動神経が鈍く、学校の勉強も遅れ気味だった為に学校の友達から「のび平」と呼ばれ、いつもからかわれてバカにされているような子供だったからだ。しかし、当の本人はいたってのん気で友達にからかわれていても、さほど気にしている様子もなかったが、洋平の方もしだいに一人でいる事を選ぶようになった。洋平は原っぱの昆虫とか植物とか、近所の猫とかと一緒に遊んでいる方が、気が楽で楽しかったのだ。
そして何よりも洋平にとっては学校の勉強や運動より、明日のお天気やお昼の給食、家で飼っているミシシッピーアカミミガメの「のび太」のことの方がずっと重要なことみたいだった。しかし洋平は決して性格が暗いとかいじけているとかそういった事も無く、ただ自分自身の世界を人よりも早く見つけ、その世界を楽しむ方法を知っていたのだった。

  そのアカミミガメの「のび太」は、洋平が小学校二年生の時の夏の終わりに、近所のお祭りの夜店でやっていた亀すくいで取ってきたものだ。しかし取ったとは言っても本当は三度挑戦して一匹も取れなかった洋平を見て、亀すくい屋の親父が可哀そうに思ったのか一匹おまけでくれたものだった。初め、その亀はとても小さくてあまりにものんびりしていたので、洋平はその亀に「のび太」という名前をつけた。

  洋平は日本経済全体がバブルの後始末に追われ、失われた十年と後に言われたその時代の、多くの子供達と同じ様に鍵っ子で一人っ子だった。
洋平の両親は、学校は違うけれどそれぞれ小学校の教員をしていて共稼ぎだった為、洋平は母親か父親が帰ってくるまでの間、家の中で一人きりで過ごす事が常となっていた。そろそろ白髪の混じり始めた、家の中ではいたって無口な父親も、二の腕やわき腹辺りにつき始めた余分な肉が気になりだした朗らかな母親も、洋平に対してはとても優しく大切に接していた。
母親は家に帰ると「洋平、ごめんね、遅くなって。今、夕御飯作るから」と洋平に声を掛け、父親は洋平の顔を見ると「洋平、学校は楽しいか?」と洋平に尋ねた。洋平はその度に「うんっ」と明るく笑顔で答えるのだった。両親は洋平に対して身体が小さく生まれてきた事や、普段一人で過ごさせる事が多いことに申し訳なさを感じていたのだが、そんな洋平の明るい笑顔を見ると心がほっとするのだった。

  そして、「のび太」が洋平の家に来てからは、洋平はのび太のことをまるで本当の弟か自分の分身のようにして可愛がり、学校が終わると真っ先にのび太の所に行って、今日一日あった出来事をのび太に報告するのが習慣となっていった。
その様子を傍で見ていた両親には、まるで洋平は本当にのび太と会話をしているようにさえ思えてくるのだった。

  それからも洋平は、学校の成績はとても良いとは言えなかったが、なんとか無事に小学校、中学校は卒業することが出来た。そして春からは彼の学区域にある、ほとんど無試験で入学出来るあまり成績の芳しくない子供達が集まる工業系の高校に進学することが決まっていた。
しかしその春休み中のある日、突然のび太が死んでしまったのだ。理由は分からなかった。ピクリとも動かなくなったのび太を発見した洋平は、大声で泣き叫びながらのび太の名前を呼び続け、必死になってのび太をつついたり、水槽から出してひっくり返してみたりしたのだが、のび太がその小さな二つの目を開けることは二度と無かった。それからだった、洋平の様子が少しおかしくなってきたのは。
  そしてそれ以来ひどく落ち込んでいる洋平を見て心配いていた両親も、高校に入学して友達でも出来れば、そのうちにのび太のことは忘れるだろうと考えていた。ところが洋平は高校に行くようになると、日に日に口数は減ってゆき表情も暗くなってきて、そしてついには、学校に行きたくない、と言い出した。洋平の両親はそれをなんとか説得して学校に行かせていたのだが、それも結局一学期の間しか続かなかった。
学校に行っても、授業が終わると真っすぐ家に帰ってきては、誰とも口を利かず部屋の中に閉じこもるような日々が続き、両親はひどく心配して理由を色々と尋ねてみるのだが、洋平は益々殻に閉じこもって、徐々に学校に行かなくなり、食事すらも自分の部屋で取るようになると、ついには夏休みに入って以来二度と学校に戻ることは無かった。
両親と学校側とで話し合いを続け、初めは休学ということで対処したのだが、さすがに引きこもりも一年にもなってくると学校側の方でも「そろそろ、、、」という雰囲気になり、両親もやむを得ず洋平を退学させることになったのだ。

  その後も洋平の引きこもりは続き、親ともほとんど口を利かず外出もせずに自分の部屋で読書ばかりして過ごしていた。学校に行かなくなった理由は結局分からず仕舞いで、洋平の両親もあきらめかけていた時、ふと父親が駄目で元々でもう一度亀を飼ってみようと言い出した。学校が何故いやになったのかは分からなくても、もしかしたら「のび太」を失ったことが一つのきっかけだったのかもしれないと考えたのだ。母親は「それはそうかもしれないが、逆効果にはならないだろうか」と心配したが、父親の方が「いや、洋平が引きこもってもう、二年になろうとしている。駄目なら駄目で仕方が無い。何もしないよりは良いだろう」と言って母親を説得した。
そして洋平の父親は近くの熱帯魚屋に行き、もう一度ミシシッピーアカミミガメの子供を買ってきて、洋平の部屋に入れておいた。
初めのうち洋平はその亀に見向きもしなかった。しかし三日ほど経ったとき、部屋から出てきた洋平が「お母さん、亀のエサは?」と母親に言ってきたのだ。母親は大喜びで、洋平の部屋に亀のエを持っていったのだった。
それから洋平はその亀に、今度は「しずか」という名前をつけて可愛がるようになると、徐々にその表情にも明るさが出てきて、段々と親とも口を利くようになっていった。洋平の両親はそのことを素直に喜んでいた。

  洋平の両親は、あまり急いで洋平のプレッシャーにならないようにと気遣いながらも、「少しずつでもいいから外に出た方が良いんじゃないだろうか」などと言ったりして、洋平を何とか立ち直らせようと地道な努力を続けていった。そんな両親の努力の甲斐もあって、洋平は少しずつ外出も出来るようになりずいぶんと明るさを取り戻すようになると、段々以前の洋平に戻っていくようだった。
そんな洋平の姿を見て洋平の父親はタイミングを見計らって、「どうだろう、お父さんの知り合いの所で少し働いてみないか?いやだったらすぐに辞めればいいから」と勧めてみた。
すると意外にも洋平は「うん、いいよ」と素直に答えて父親に微笑んで見せた。父親はその時、涙が出そうになるのをこらえて「そうか、じゃあお父さん、知り合いの人に頼んでおくからな」と言った。洋平は頷きながら「うんっ」とだけ、答えた。

  それが今働いているシートベルトの金具を作る工場だった。その工場の社長は洋平の父親の古くからの友人で洋平の事は前々から父親に聞いていたので、うちの洋平を少しだけでも良いから働かせてやってくれないか?というその父親の頼みを快く引き受けてくれた。工場は頭頂部の禿げかけた小太りの気の良い社長さんと、経理を担当している、サザエさんのようなヘアスタイルをした明るく元気なその社長の奥さんと、古くから勤めている従業員、年齢は四十代から五十代のおじさんとおばさんが、三人と二人ずつ居るだけといった家庭的な雰囲気の職場だった。
洋平は元々素直でおとなしく真面目な子供だったので、皆、自分の子供のように可愛がってくれた。洋平も同年代の人達といるよりもむしろ安心して働くことが出来た。
それからは特に何事も無く、二年の月日が過ぎてゆき、洋平も既に二十歳になっていた。洋平は「のび太」同様に「しずか」を可愛がり、きちんと真面目に仕事にも通い、今では引きこもっていた事が嘘のように明るくなり、段々と一人前の大人に成長していった。

  そんなある日、家族で映画を見ていた洋平が突然「象に乗りたい」と言い出した。
その映画は『星になった少年』という映画で、哲夢という一人の無口な少年が母親の夢を実現するために単身タイのチェンマイにある象使い学校に留学し、日本に帰ってきてからは日本で初めての象使いとして象と心を通わせてゆく、という親と子そして人間と動物と自然との共生がテーマという内容のものだった。
洋平はその主人公の哲夢に自分自身を重ね合わせたのか、深く感情移入した様子でその映画を見ている途中何度も涙を流し、そして映画を見終わるとすっかり象に乗りたくなってしまったのだった。洋平の両親はそれを聞いて、洋平が自発的に何かをしたい、というのはとても珍しいことだったのと、ここ最近は家族三人で出かける機会もほとんど無かったので、いい機会だから三人で旅行でもしようということになった。
洋平の両親は小学校の教師だったので比較的夏休みも長く取りやすかったし、洋平の方も今まできちんと頑張って働いてきていたので、工場の社長も気持ちよく夏休みをくれる事になった。
最初、象に乗るのならタイのバンコクが良いんじゃないかとも話していたのだが、母親が知り合いに聞いたところ、あまり有名な話ではないがバリ島のウブドでも象に乗れるらしい、という事だったので結局騒々しいバンコクよりもバリ島の方がのんびり過ごせるだろう、という事でバリ島行きが決まったのだった。

  洋平にとってはこれが初めての海外旅行である。初めて作ったパスポートの写真で洋平は、少し恥ずかしそうな笑顔をして枠いっぱいに写っていた。夏休みになると、三人は早速インドネシアのバリ島に向かった。飛行機は一度ジャワ島のジャカルタを経由して、そこから少し小さめの飛行機に乗り換えてバリ島のングラ・ライ国際空港に到着した。空港に到着するとそこは既に熱帯特有のモワッとした生暖かい空気に包まれていて、三人はすぐにシャツを一枚脱ぐような暑さに出迎えられる事になった。
空港からウブドのホテルまでは、市街地を抜け山道を分け入り車で約一時間の道のりだ。山道に入ると徐々に緑の香りが辺りに膨らみ始め、空には様々な形をした雲が悠々と流れていった。ホテルはウブドにあるグヌン・ルバ寺院の近くのホテル・ロータスという所を予約していた。洋平がそのホテルの名前を見て一目で気に入り、どうしてもここが良いと言って聞かなかったからだ。

  ウブドはバリ島の中部にありそこはのどかな田園風景が延々と広がり、豊かな森に囲まれたとても静かで平和な村のように思われた。そしてホテル・ロータスは現地に着いてみると、村の中心からは少し外れていたがアユン川という川のほとりにひっそりと立つリゾートホテルで、あまり仰々しくも無く落ち着いた雰囲気があって、三人がゆっくり過ごすには最適な場所のように思われた。
彼らは父親と母親で一部屋、洋平が一人で一部屋の二部屋を予約しておいた。二部屋ともホテルのフロント脇の廊下を通り過ぎた奥にある、テラスの向こう側の一階の部屋で、それぞれは隣り合った場所に建っていた。部屋はそれぞれに独立していてコテージ風の造りになっていた。洋平と両親はそれぞれの部屋に入り、荷物を置いて簡単にシャワーを浴びるなどしてそれぞれにくつろいで過ごした。それぞれの部屋の正面には外に向かって大きく開かれた窓があり、その窓からは眼下にアユン川渓谷を見下ろすことが出来た。そしてその大きな窓からはたくさんの光が部屋に注ぎ込み、渓谷から吹く風がとても気持ちよくて洋平も洋平の両親もその部屋に大満足だった。

  彼らはひとしきり部屋でのんびり過ごすと、夕方近くに三人はロビーで待ち合わせて、サレン・アグン宮殿へバリの民族舞踊を見に行くことにした。ホテルからそのサレン・アグン宮殿までは歩いて四十分程かかったが、三人はゆっくり散歩しながら行くことにしてウブドの心地よい風を受けながら、その島の大地に延々と拡がるライスグリーンの景観を楽しみつつ向かった。鮮やかな緑は風に吹かれ、ダンスを踊る。そしてその姿を刻一刻と変えてゆく。三人がサレン・アグン宮殿に着く頃には暮れかけていた夕日もすっかり陽を落とし、いつの間にか空には幾つかの小さな星たちが瞬きだしてひそやかに夜の気配を漂わせていた。その夜のサレン・アグン宮殿ではバリ舞踊の代表的なレゴン・クラトンという踊りを見ることが出来た。

  レゴン・クラトンとは神と王の繁栄を祈り称える神秘的な踊りで、それは暗闇の中に激しく燃える炎の灯りで浮かび上がるサレン・アグン宮殿に、上半身裸の男達の演奏する情熱的なガムランの音が響きわたり、踊り手の美しい女性達の華やかな衣装とアクセサリー、それに彼女達のしなやかなで怪しげな指先の動きや腰つきが、見る者を幻想の世界へと導いていくようだった。

  三人は一時間ほどそのバリ舞踊を観賞すると、それから宮殿の近くにあるテラソというインドネシア料理を食べさせるレストランに行き、ナシ・ゴレンだのミー・ゴレンだのチャプ・チャイだのとお腹一杯になるまで夕食を楽しんだ。洋平はその中でもデザートに出てきたランブータンという果物が特に気に入った様子だった。そのランブータンという果物は、赤い実の周りにイソギンチャクの触手のような気持ちの悪いひげみたいなのがいっぱい付いていて、その見た目のグロテスクさとは反対に中身はライチのように白くてつるんとした甘い果肉が入っていて、そのギャップが洋平には新鮮に思えたのだった。その後三人は腹ごなしも兼ねて夜風の吹く気持ちの良い、ひっそりとした夜の村道をゆっくりと散歩しながらホテルまで帰った。まるでトトロでも出てきそうな遠くの森では、木々たちがざわざわと声をたて話し込んでいるようだった。

  ホテルに着くと洋平は洋平の部屋に、両親は両親の部屋にそれぞれ戻って行った。別れ際にお母さんが「明日はいよいよ象に乗れるわね」と、洋平に声を掛けた。洋平は「うんっ!」と、笑顔で答えた。それは本当にうれしそうな笑顔だった。そしてそれぞれは、本を読んだりお風呂に入ったり、パックをしたりしてそれぞれの時間を過ごしながら、ウブドの夜はひっそりとふけていった。洋平は部屋に戻るともう一度シャワーを浴びて、上半身裸のままパンツだけという格好でベッドに転がり込み、日本から持ってきた村上春樹の短編集をカバンから取り出して読書を始めた。その本は今までにも洋平が何度も読み返してきた本だったが、洋平は一度気に入ると何度でも繰り返し読む癖があり、今回もその普段慣れ親しんだ短編集を持ってきていたのだった。

  開け放たれた窓からはひんやりとした涼しげな風がしずかにしのびこみ、アユン川のせせらぎの声はサラサラと気持ちの良い音をさせて何処までも流れていった。

  洋平はふと読書する手を休め部屋の灯りを消して、暗闇の中で風の声や川のせせらぎの声に意識を集中させた。目を閉じた洋平の瞼の裏側には、まるで地底人でもこっそりと現れそうな程の神聖なる漆黒の世界が拡がっていった。すると今まで聞こえなかった様々な音が洋平の耳に聞こえてきた。それは風や川の流れの声だけで無く、様々な虫の鳴き声やかえるの鳴き声、ふくろうの鳴き声に何処かの鳥が夜の闇に飛び立つ羽音、人々の温かなざわめきや話し声、通り過ぎる自動車のタイヤの軋む音、クラクション、そういった多種雑多な声たちだった。洋平は更に意識を集中させる。それはまるで象たちが仲間と交信する時に、自分たちだけに分かる特殊な周波数の空気の振動を使い分けてコミュニケーションを取る時のように、洋平は洋平の耳に聞こえてくる音の中から耳障りで不必要なノイズをすっかり取り除き、洋平の耳に美しく響く声だけを選り分けてゆく。そして洋平はそのウブドの夜の闇が自然界に作り出す、心地の良い幻想的なオーケストラの世界に深く深く身を浸し、魂を同化させていった。
  

      サラ

     サラサラ      サラ                          サラサラサラ
    フィーン フィーン    フィーン フィーン        フィフィーン
      リーコロコロコロ          リーコロコロコロ                     リーン
    ホー ホー                            ホー

      グゥワッグゥワッ  グェーコ          グゥワッグゥワッ   グェーコ
     フィーンフィーン     フィーン            フィフィーン     サラサラ    

    サラ・・・
  洋平には小さいときから自然にそのような能力が備わっていた。それはいつも一人きりで過ごしてきたせいかもしれないし、動物や植物だけを心許せる友人として生きてきたからかもしれない。どちらにしても洋平は、自分にとって自分を傷つけるモノと自分の心を癒すモノとを瞬時にかぎ分け、選び取る能力を身につけていた。
それは洋平にとっての敵と味方と言っても良いかもしれない。それは健常な人々よりも若干、知力と体力が劣っていた為に神様が用意してくれた特別な能力だったのかもしれない。きっと彼は今までもそうやって自分の身を守りながらひっそりと生きてきたのだろう。弱きモノは、悪しきモノを意識の深層の奥底に葬って、その身を小さくかがめてしか生きてはいけないのだ。
そしてそこにあるのは果てしなく続く孤独の深い暗闇と、洋平を背後でそっと見守り続ける夜の精霊たちの存在だけであった。


      サラサラ      サラ                          サラサラサラ

     フィーン    フィーン フィーン        フィフィーン
     リーコロコロコロ          リーコロコロコロ                     リーン
    ホー ホー                            ホー
     グゥワッ  グェーコ                  グェーコ グェコ
      フィーンフィーン                

                                                      フィフィーン         サラサラ    サラ・・・


  しばらくの間洋平は、その魂の響きに心をかたむけているとその中でも突出して響いてくる鳴き声に気が付いた。
  グェーコ グェコ   グェコ
かえるの鳴き声である。しかもそれはどうやら部屋の中の何処かから聞こえてくるようだった。洋平は部屋の灯りをつけるとその声の持ち主を探した。すると部屋の片隅に置いてある木製のデスクの後ろからそれは聞こえてきた。洋平がデスクの後ろを覗いて見ると、そこに居たのは、この地域に生息する体長五、六センチのクロマダラヒキガエルという茶色い小さなヒキガエルだった。洋平はその小さな侵入者を追い出そうかどうしようか考えて、止めた。彼もまた一夜の宿を必要としているのかもしれない。そして洋平はまた読書の続きを始め、目が疲れてくると灯りを消して再びウブドの夜の世界を感じながら、象に乗っている明日の自分の勇姿を想像しながら、眠りに就いた。
                   
                   
                   

  「グェーコ、グェコ」
洋平が眠りに就いてしばらくすると、洋平の耳元で小さくかえるの鳴き声がした。洋平は目を覚ましたが、さっきのかえるだろう、と思ってそのままもう一度目を閉じた。すると今度は、よりはっきりとした声で、
  「グェーコ、ゲコ。洋平、おい起きろ、洋平」と、洋平を呼ぶ声がした。
洋平はびっくりして飛び起きた。そしてすぐに灯りをつけた。すると洋平の目の前にはおそらく一メートル八十センチ以上はある、背中のでこぼこした茶色のかえるがその白いお腹を見せて二本足ですっくと立ち上がり、そのグリンとした大きな黒い瞳で洋平の事を見下ろしていた。洋平はあまりにもあまりな突然の出来事に、内心ドキドキしながらも声を振り絞って「お前は誰だ!」と叫んだ。するとそのかえるは、
  「見ての通り、かえるさんだ。グェーコ」と、体を大きくそっくり返しながら答えた。
洋平は、なんだ夢か、と思った。するとそのかえるは、その洋平の考えを読み取ったかのようにすかさず、
  「夢じゃあ無いぞ、洋平。お前が今、そのちっこい二つの目で見ていることはちゃんと現実だからな。いいか、今から俺の言う事をよく聞け」と言った。
洋平は「あれ、何でバレたんだろう、まあいいや。聞けって言ってるんだからとりあえず聞いておこう、なんか怖そうだし、このかえる」と、そのかえるに聞こえないようにぼそぼそとつぶやいた。
かえるは「おい、俺のことはかえるさんと呼べ。かえるじゃあ、かえるさんに失礼だろ」と言った。
  「分かった!お前、村上春樹の『神の子供たちはみな踊る』に出てきたかえるくんだろう?」
それは洋平の大好きな村上春樹の短編集のことで、その中の『かえるくん、東京を救う』に出てくる東京を救ったかえるくんの事だった。洋平はそのかえるくんの事が大好きだったのだ。しかしそのかえるさんは、
  「だから、俺はかえるくんじゃなくてかえるさんだと言ってるだろう。頭悪いなお前」と答えた。
  「まあ、確かに」と洋平は素直にそれを認めた。「でも、ほんとにあのかえるくんじゃあないの?」
  「しつこいな、俺は村上春樹なんて知らないし大体小説になんて出た覚えも無ければ、ギャラだって貰って無い。それにそいつはかえるくんなんだろう、俺は、か・え・る・さ・ん。それにどっちかというと、俺は村上龍の方が好きだしな」
  「ふうん、まあいいや、かえるさん。それで一体僕に何の用なの?」
  「やっと分かったか、まあいい。いいかよく聞け、洋平。今から言うことはとても大事な事だからな、お前にだけ特別に教えてやるんだからな」と言って、かえるさんは水かきのついたその大きな右手で洋平の肩をピシャリと叩いた。
洋平はちょっとだけ叩かれた肩が痛かったけれど、その事はぐっとがまんして、
  「うん、分かったよ」と答えた。
  「いいか、明日の朝、このウブドで大規模な無差別テロがある。バスやらタクシーやらがホテルやらレストランやらで大爆発する。もうだれかれ構わずの皆殺しテロだ。だから今のうちに逃げると良い。分かったか?しかし、他の人間には絶対に言っちゃ駄目だぞ」
  「えっ、それ本当なの?」
  「本当だ」かえるさんは深く頷きながら静かに言った。
  「ねえ、それ僕のお父さんとお母さんにも言っちゃ駄目なの?」
  「お父さんとお母さんだけはよろしい。しかしそれ以外の人間には言っちゃあ、いかん」
  「何で?どうして他の人には言っちゃあいけないの?」
  「それはパニックになるからだ。それに他の人間の事なんてどうでもよろしい」
  「んー、ねえ、でも本当にテロは起こるの?かえるさんは何でそれを知ってるの?」
  「テロは本当に起こる。俺達、『超動物連合諜報機関』の情報網を甘く見ちゃあいけない。それこそ全世界規模に張り巡らされた情報網なのだ。そしてその情報の正確さと言ったらCIAやFBI、ゴルゴ13どころの比では無い。俺達、動物達は極秘裏のうちにもう既に逃げる準備を進めているところだ。これは、本当は人間には教えてはならない事になっているのだ」
  「じゃあ、何で僕に教えてくれるの?」
  「それはさっきお前がデスクの裏で俺を発見した時に、そのまま俺を殺さずに見逃
してくれたからだ。普通、大概の人間どもは部屋の中で俺達かえるさんを見つけたら、すかさず殺そうとするだろう。しかし、お前はそうでは無かった。だからだ」
  「そっか、お前さっきのかえるかあ」と言って、洋平はその水かきの無い両手をペタンと叩いた。
  「俺の事はかえるさんと呼べ、とさっきから言ってるだろう」と言って、かえるさんは自分の白く膨らんだお腹をピシャンと叩いた。
  「はい!かえるさん」と言って、洋平はふざけて敬礼をする真似をした。
  「でも、このバリ島はヒンズー教の人達が多いからテロとかは無いだろう、ってお父さんとお母さんが話してたけどなあ?」
  「ふうん、お前案外バカじゃないんだな。しかしそれがそうでも無いんだよ。これが。いいかよーく聞け、洋平」
  「はい」と洋平は答えた。
  「以前このバリ島でも観光客を狙った無差別テロがあったんだよ。その時もまあ、酷かったけどな。しかし今度のやつはもっと大規模なやつらしい。今やテロは世界中で起こり続けている。N・Y、ロンドン、パリ、スペイン、イタリア、イラク、パレスチナ、イスラエル、そしてこのバリ。今や世界中で安全な所など何処にも無いんだよ。イスラム対キリストの争いはもう手の施しようが程に悪化している。テロだけじゃあ無い。イランや北朝鮮の核開発もそうだ。そして今、日本で話題になっているいじめの問題やホームレス狩り、親殺し、幼児虐待、そういう身近な事から全部つながっているんだ。更に地震、津波、ハリケーン、森林伐採、地球温暖化等の環境破壊。全部人間のしてきた事のツケが今、人間自身に降り掛かってきているのだ。全く、人間というのは本当にどうしようも無いな。人間と人間はいつでも傷つけ合い殺し合って、所詮はエゴとエゴのぶつかり合いだ。もう今更人間がどうあがこうと遅いんだよ。人間が自らの手で地球を駄目にしてしまったんだからな」
  「そんな、、、」
  「洋平、お前にいい事を教えてやる。俺達かえる族には昔から伝わるこんな格言がある、『かえるさんは自分の住んでいる池の水を飲み干したりはしない  by ラコタ』 だ。 とにかくまあ、俺達動物は出来るだけ人間の来ない所に、既に大移動を始めている。そして皆、こう思っている、人間なんて全員死んでしまえば良いってな」
  「、、、」
  「だがな洋平、お前は別だ。お前は俺を殺さずに見逃してくれた。だからお前にだけは特別に教えてやったんだ。いいか、もう一度だけ言うぞ、明日の朝このウブドで大規模な無差別テロがある。もう人間という人間は皆殺しの大虐殺だ。ウブド中の建物はみんな吹き飛んで瓦礫の山と化し、人間は、両手両足は千切れてバラバラ、頭もぐちゃぐちゃに潰されて跡形も無くなりウブドは一面血みどろの海だ。まあいいさ、人間同士勝手にやってくれ、俺達動物は喜んでいるくらいさ。
  いいか洋平、分かったら早く逃げろ、出来るだけ早く、出来るだけ遠くへな」
  洋平はウブド中の建物が粉々になり、その上にバラバラになった人間の手や足や胴体や頭が飛び散り、美しいライスグリーンの緑色が真っ赤な血の色に染まっていく様子を思い浮かべてみた。
  「ねえ、かえるさん、地球上何処も危険なんだったら今更逃げても仕方無いんじゃないの?」
  「そうかもしれないし、そうでは無いかもしれない」と、かえるさんは自分で自分の言った言葉を確認するかの様に小さく頷きながらそう言って、
  「さあ、俺がしてやれるのはここまでだ。俺はもう行かなくては。洋平、分かったらそこのドアを開けてくれ」と、続けて言った。
洋平は言われるがまま、入り口のドアを開けた。かえるさんはベタンキュと四つん這いになって、のそのそと入り口の方に歩いて行った。
   「いいか、出来るだけ早く、出来るだけ遠くへ、だぞ」そう言い残して、かえるさんはウブドの闇の中に消えていった。
  「かえるさん!かえるさん待ってよ、ねえ、かえるさんってば、」洋平はその深い闇に向かって叫び続けていた。
                    
                   
                   
                   

  「洋平、どうしたの?ねえ、洋平、起きなさい」
そこで洋平はお母さんに身体を揺すられ、起こされた。部屋の中には窓から眩しい朝の光がたくさんこぼれて入ってきていた。
  「あれ?かえるさんは?」
  「かえるさんなんて何処にも居ないわよ、変な夢でも見てたんじゃないの?かえるさん、かえるさんてずっとうなされていたわよ」
  「あれえ、夢だったのかなあ。夜中にね、かえるさんが出て来たんだよ。こんなに大きいの」そう言って、洋平は両手を広げてその大きさを母親に示してみせた。
  「そお、すごいわねえ。さあ、もう起きなさい。朝食を食べに行かないと」
  「うん、ねえ、あのね、かえるさんが今日おっきいテロがあるって言ってたよ。すっごいおっきいの。それでね、もう人間はおしまいだって。自分達のせいだって。かえるさんは池の水は飲まないって」
  「あらそう。ねえ洋平、もうその話は分かったからもう起きてちょうだい。お父さんももう準備して待ってるから、ねっ、支度したらお母さんの部屋に来て頂戴ね。分かった?」
  「うん、分かったよ。でもね、本当なんだよ、お母さん」
  「はいはい」と言って、母親は洋平の部屋を出て行ってしまった。洋平はそこら辺に置いてあった黄色いタンクトップを上に着ながら、「おかしいなあ、本当に居たはずなんだけどなあ、」と言って、洋平も母親の後を追って部屋を出て行った。
  部屋を出て行く洋平の肩に、水かきのついた手のひらの跡がくっきりと付いていた事に、洋平は気付いていなかった。