「 彼の、コップの中の魚 」











  彼の家にベタのタラ夫がやって来て、そろそろ九ヶ月が経とうとしていた。
  彼は高校生の頃からベタが好きだった。
彼のとても好きな映画に『ランブルフィッシュ』という映画がある。それはフランシス・F・コッポラのモノクロ映画で、劇中、主人公役のミッキー・ロークが、弟役のマット・ディロンに、寂れた街の片隅の、ペットショップの水槽に宙を漂うようにゆらゆらと蠢くランブルフィッシュ(ベタ又は闘魚)を見ながらこう、言うのだ。
  「この魚はいつでもたった一人でいるんだ。本当は寂しがり屋のくせして他の誰とも一緒に居る事が出来ない。それはまるで俺のようだ」と。

  ベタは、非常に縄張り意識が強く、オス同士を一つの水槽に入れると、どちらかが死ぬまで闘う習性があるという。

  その映画を見たとき、その頃の彼は感受性が人一倍強かった為、彼自身もまたそのランブルフィッシュと自分の姿を重ね合わせていたのだろう。彼はランブルフィッシュ、ベタの持つその繊細で幻想的な美しさの裏側に隠された孤独さと暴力の魅力に強く惹かれた。そして今までに何度もベタを飼ったことがあった。しかし、一匹のベタが秋を越え、冬を迎えたのは初めての事だった。

  何故だろう?

  答えは簡単だ。水槽の中にヒーターを入れたからだ。彼は考えた。逆に何故、今までヒーターを入れなかったのだろう、と。
ベタは普通、熱帯魚屋に行くと小さなコップの中に入れられて、売られている。熱帯魚屋の親父に話を聞くと、「この魚はほとんど動かないから、コップの中で飼っても大丈夫なんだよ。水も二週間に一回位替えればいいから、とても飼い易いよ」と教えてくれる。
  それで彼は今までに何度もベタを飼ってきた。が、しかしいつも、コップの中のベタは春先に家にやって来ては、秋口の肌寒いある日の朝、水面にゆらゆらと所在無く浮かんでいるのだった。
彼は、熱帯魚屋の親父の言うとおり、ご飯もあげていたし、お水も替えていた。彼なりの愛情だって、そこそこはきちんと与えていたつもりだった。だから彼は、ベタという魚は元々寿命の長くない魚なのだなと考えていた。
ある年、よく晴れた春の日の朝、彼は久しぶりにまたベタを飼おうと思い、熱帯魚屋に出掛けた。幾分大人になっていた彼は、ベタを購入する時に、熱帯魚屋の親父に、
  「今まで何度もベタを飼ったことがあるんですけど、いつもすぐに死んじゃうんですよね、どうしてなんですかねえ?」と聞いてみた。すると店の親父は、
  「ちゃんと、ヒーターとか入れて温度管理してるの?」と、言った。
  彼が、「えっ?ヒーターとか要るんですか?」と聞き返すと、
  「そりゃ、そうだよ。熱帯魚なんだから。大体二十度から二十四度位を保つようにしないと。水温が十八度以下になったら死んじゃうよ」と教えてくれた。 
  そうだったのか、でもよく考えてみればタイ原産の魚なのだから当たり前だよな。だから秋口の冷え込んだ夜の次の日の朝、水面に浮かんでいたのか、、、でも、僕は今までに何度もベタを買ったけれど、お店の人は「簡単に飼えるよ」と言うだけで、誰一人としてヒーターが必要だとは教えてくれはしなかった。
熱帯魚屋の親父達からすれば、そんなの常識だろう、と思っていたのだろうか。いや、多分そうでは無い。きっと彼らは、「ベタは熱帯魚だからヒーターも一緒に買わないと秋口には死んじゃうよ。だからはい、ヒーターは千八百円。ベタは五百円」なんて言ったら誰もベタなんて買わないだろうな、まあ、ヒーターの事は聞かれたら教えてやってもいいけど、聞かれなければ、簡単だよって言っとけばいいだろう。こっちも商売だからな。なんて考えているに違いない。

  大体にしてコップに入るヒーターなんてそもそも存在しないだろう。そして、そうやって彼らは罪の無いベタを一匹、また一匹と心の中で見殺しにしているのだ。そうして無教養な僕のようなバカな若者が、毎年春になるとベタを買っていき、秋の夜長に「かわいそうに」と言いながら、無邪気さの残酷さで、ベタを一匹、また一匹と見殺しにしてゆくのだ。
  命を預かり、命を商売道具にする熱帯魚屋の親父は、ベタの命の重さを感じたりはするのだろうか?命を商売道具とする彼らには、その命をどう扱ったら良いのか説明する義務と良心の欠片は無いのだろうか?もし、彼らの子供が冬山で遭難でもしたら 、きっと大騒ぎするだろうに。しかし、ベタの魂の重さは感じないのだ。

  そう、彼は思った。

彼は家に帰ると、その内側に不規則な気泡を閉じ込めた、おじいちゃんの形見でもあるお気に入りの昭和ガラスの水槽に、昨晩から汲み置きしておいた水と、ヒーターを入れ、水温が二十二度に安定するのを待ってから、その水中に深い、深いコバルト色を持つベタを一匹、滑り込ませた。彼はそのベタに「タラ夫」という名前を与えた。
 
  そして季節が過ぎた。
夏になり、秋を越え、日が徐々に短くなって朝夜の冷え込みが厳しくなる頃、タラ夫はその孤独なまでに美しいコバルト色をさらに美しく輝かせながら、ゆらゆらと水中を漂っていた。もう、彼は冷えた夜の次の日の朝、心配そうに水槽を覗き込む必要は無いのだ。
彼はタラ夫に、
  「良かったな、タラ夫。今年の冬はあったかいぞ」と話しかけながら、自分もまた、熱帯魚屋の親父と同罪であることを胸に刻んでいた。