「 カルカッタの朝 」











  列車は定刻を2時間50分程遅れて、夜の11時50分にヴァナラシの駅を離れた。

  駅ではまだ、次の列車を待つ人々の話し声や、チャイを売る男、お弁当やスナック菓子を売る人々の掛け声が響き、彼らの吐き出す煙草の煙が、薄暗いオレンジ色の駅構内にぼんやりと漂い、そこに生暖かい、人間の気配を感じさせていた。

  列車はガタガタと音を立てて、そのぬめっとした深い暗闇を切り裂いて、新たな暗闇の中に滑り込んでゆく。欠け始めた月が高く、高く空に浮かんでいた。僕は手に持っていた既に飲み終えたチャイの素焼きの器を窓から投げ捨てる。その土で出来た器はまた、土に帰ってゆくという。ふと列車の中を見渡す。列車の中は思ったよりも人影は少なく、薄暗い車内灯の灯りと、古ぼけた扇風機の途切れがちなモーター音が送り出すゆるやかな風が、車内にひんやりと湿った空気を作り出していた。

  僕の座った席は一番安い二等の寝台車両だった。寝台といってもきちんとしたベッドが有るわけでもなく、ただ何十年も使い古されて干からびた皮製の長椅子がそこに横たわっているだけだ。僕は列車の進行方向に向かって座り、流れてゆく景色とも言えない景色をただぼんやりと眺めていた。そしてそれは、前方に時折現れる街頭の明かりだけが、列車の遥か後方に千切れるように飛ばされて行くだけの、連続した時間の光景だった。僕は小さい頃から夜行列車が好きだった。今まで僕が通り過ぎてきた時間や場所、記憶、そういったもの全てを暗闇の中に置き去りにして、明日という名の新しい粒子が僕を包み込んでゆく。そこには僕の望む全てのコトがすっかり用意されていて、僕は何の不安も心配もなく、それをそのまま受け入れる。夜行列車が僕に運んでくれる柔らかな空気と暖かい香りが僕のささくれだった気持ちを徐々に解きほぐしてゆく。僕はただ、その時の粒子の流れの中に身を委ねていれば良いのだ。

  そして僕はいつの間にか眠りに落ちていた。


  ふと目を覚まし時計の針に目を送ると、時計の針は深夜の三時五十七分を指していた。夜明け前の一番冷え込む時間帯だ。僕の座った席の周りに人影は無かった。確か列車が走り出した時には五、六人の乗客が居たはずである。僕は少し不安な気持ちになり、立ち上がって車両の中を確かめにいった。すると、乗客はそこにちゃんと存在していた。ただ皆、その干からびた長椅子に横たわり、深い眠りの中で、僕の視界の届かない場所に沈殿していただけだった。僕は少しほっとして、自分の席に戻った。そしてまた、見るともなく、外の景色を眺めていた。時計の針は四時を少し回ったところだった。

  車両の前方の扉がガタンと音を立てて開いた。と思った。こんな時間にいったい誰が行動しているのだろう? 列車が駅に停車した訳でもないのに、、、 僕は自分の耳の錯覚かとも思ったが、そうではなかった。人影がこっちに近づいてくる気配がした。他の乗客は誰一人、その事に気付く者も無く、深い眠りの底にいるようだった。僕はその人影には気付かないふりをして、外を見ていた。しかしその近づいてきた人影は、僕のすぐ脇で足を止め、僕の方を見ている気がした。僕が恐る恐る振り返ると、そこには一人の男が立っていた。そして彼は何も言わず、僕に両手を突き出した。
  僕は自分の目を疑った。彼の両方の腕はそれぞれ、あまりに不自然なところで唐突に失われていたからだ。右腕は肘の関節から十センチ程のところで失われ、左手も肘の関節から五センチの辺りで急激に肉が細くなり、あり得ない方向にねじれたまま唐突に途切れた。そしてその左腕に壊れかけた小さな金属製のバケツをぶら下げて、僕に暴力的でさえあるその圧倒的な無言の中でバクシーシを訴えていた。僕はあまりの恐怖とその重苦しい空気に息が詰まりそうだった。僕は彼の姿をまともに凝視する事が出来ず、恵みを施す事さえ出来なくて、ただ早く彼がこの場を立ち去ってくれる事を祈った。

  やがて、彼は諦めたように去っていったが、僕の口の中には、嫌な臭いのするベタベタとした唾液だけがいつまでも残されていた。

  その後、僕の前に次々と彼のような、身体のどこかに不備を抱えた不具者たちが、現れては消えていった。   次に僕の前にやって来たのは、自作のスケードボードを両手で漕ぎながら現れた、下半身の無い少年だった。彼もまた僕の前に両手を突き出してバクシーシを要求し、その場に「ゴー、ゴゴ、ゴ、、」と不規則にタイヤの転がる不気味な響きを車内に残し、そして去っていった。

  その次には、全身におびただしい数の膨らみを持ったデキモノを抱えた老人が現れた。彼は薄汚れた水色のボロ布をまとっていたが、顔から肩から腕から、足から体中に抱えた大小様々なデキモノを、その隙間から覗かせていた。それが何による膨らみなのか、骨の異常からくるものなのか、その内側に脂肪を蓄えているのか、膿を持ったものなのか、それともあくまでも遺伝による先天的な畸形なのか、僕には判断できなかった。ただ彼の全身は既に人間の身体のものとは思えないくらいに変形していて、生きている事が不思議なくらいだった。彼の瞳は何処を見ているのか、宙を彷徨いながら鈍く澱んでいた。

  タ、ス、ケ、テ、ク、レ、

  僕は心の中で声にならない声のうめきを上げた。しかし、僕の願いは虚しく、また、別の男が僕の前に現れた。両脚の太さが極端に異なる少年だ。右足は決して健康的とは言えないまでもとりあえず、不自由はなさそうだった。しかしそれに対し、左足は明らかに肉というものが付いていない。文字通り、がさがさとした骨と皮だけで、それが足としての機能を果たしているとは、到底思えなかった。
彼もまた僕にバクシーシを要求し、それから、左足をずるずると引きずるようにして列車の後方の深い暗闇の中に消えていった。

  その次に現れたのは、右腕の欠けた男。まるで誰かにねじ切られたような右腕の名残りらしき肉の塊が、右肩から十五センチ程のところでぶら下がり、そのちぎれた肉の塊がヒクヒクと、前後に微かに揺れ、その存在の頼りなさを誰かに主張しているようであった。

  それから、餓死寸前、いやもしかしたら既に餓死しているのではないかと思われる、乳飲み子を左腕に抱えた異常に背の低い老女。

  指の数が明らかに数本足りない少年。   せむし男のように、大きく張り出した両肩に顔をうずめ、やせ細った少し通常より短いと思われる両腕を、前方に突き出したままの少年。

  顔面の中央に大きな穴の開いた老人。彼の顔面には確かに穴が開いている。上唇がただれてめくれ上がり、その内側がぶつぶつと黒ずんでいて、そのまま左右の鼻の穴と繋がっている。それはまるで、顔の中に巨大で救いようの無いブラックホールのように深い、深い暗闇を抱えているようだった。

  彼らは皆、自分達はその様な不自由な身体を抱え、働く事も食べる事さえままならないのだ、という事を僕に無言で訴え、バクシーシを要求し、そしてその瞳は皆一様に光を失い、鉛のように鈍く澱んだ色をしていた。
  僕は、その間ずっと、彼らの顔をちゃんと見ることも出来ず、言葉さえも失い、恐怖に震えていた。他の乗客達は誰一人として、この状況に目覚めないのだろうか。
  これが夢であるならば早く覚めて欲しい、とずっと祈っていた。しかし、これは夢でも幻でも無く、明らかにはっきりとした、明確すぎる現実だった。僕がいくら目を背けても、思考を閉じても、彼らは僕の目の前に姿を現すのだった。
  早く、夜が明けて欲しい。ただそれだけを願った。
  やがて、東の空が少し、白み始めたように感じた。僕はタスカッタ、と思った。 しかし、またしても、僕の前に別な男の影が現れた。彼は物音一つさせず、何の前触れも無く突然僕の目の前に現れた。僕は落としていた視線を、恐る恐る、少しずつ上方にずらしていった。
  まず、両足は、あった。とりあえず痩せ気味ではあったが、健康そうな足だ。長さも揃っている。腰も通常の位置にあったし、両腕もちゃんと二本揃っている。指もたぶん、十本揃っている、ように見える。大丈夫。自分にそう言い聞かせた。首の上にもきちんと頭が乗っている。彼の頭が、ちょうど車内の、ただでさえ薄暗い車内電灯の光を遮っていたために、逆光になり彼の顔立ちまでは判別が出来ない状態だった。しかし、その薄暗い灯りを頼りに、僕は彼の顔を確認しようと試みた。徐々に明らかになる、彼の顔立ちには特に異常は見当たらない。しかし何処かで見覚えのある顔だった。それもそのはずだ。そのよく見慣れた顔はまさしく永年毎日見続けた、僕のものだった。

  僕自身がそこに立っていたのだ。

  そう、彼の身体には人間が人間として生きてゆくために必要な機能が十分に与えられていた。しかし、その彼の瞳もまた光を失っていて、深く、深く沈みこんだ鉛色をしたガラス玉のようなモノが、彼の鼻の両脇に開いた二つの窪みに埋め込まれているだけだった。そして彼もまた、僕の目の前に掌を突き出して立ちはだかり、その圧倒的な沈黙の中で、僕に何かを訴えるように僕の瞳を見つめていた。
  僕は、自分が恐怖の奥底にいることを悟った。そして自分自身の存在が揺らいでいた。
  身動きすら出来ず、僕は目を閉じた。全ての思考を停止するのだ。と自分自身に命令し、頭の中で一から十までの間、ゆっくりと、数を数えた。そして僕はたっぷりと時間をかけて少しずつ目を開く。
  すると、そこにはもう彼の姿は無かった。そこに有るはずの彼の残した匂いも存在の欠片も、何も残されてはいなかった。

  彼は本当にそこに存在していたのだろうか、あれはただの幻で偽善的な僕の罪の潜在意識が僕に見させた幻覚だったのだろうか、僕には分からなかった。
東の空はずいぶんと明るくなっていた。欠けた月の姿は既に消えていた。もうすぐ列車はカルカッタの駅に着くだろう。
遥か東の空を眺めながら、もう一度僕は考える。あれは自分の中に潜む、臆病で傲慢なもう一人の自分の姿ではなかったのだろうか、それとも今は何も知らない明日の自分の姿だったのかも知れない、と。
  ただ、一つ言える事は、あの時僕は確かに覚醒していた、という事だ。