「 からし明太子 」










  「 ♪ メンタイコ、メンタイコ、メンタイコったらメンタイコ、何は無くともメンタイコ、ゴハンは三杯メンタイコ ♪ 」


  これは僕が小学校三年生の時に作った歌だ。というのは真っ赤な嘘で本当は今さっき作った歌だ。
要するに、僕は明太子が大好きで他におかずが何にも無くてもご飯三杯はイケルぞ!というとても熱い歌なのだ。
 
  「あなた!さっきからメンタイコ、メンタイコってうるさいわよ!いくら私がこれから福岡に出張に行くからって、何もそんなに明太子をアピールしなくってもいいでしょ!」

  「あれ?聞こえたえてた?僕の作った歌」
  「聞こえてるわよ!バカ!!」

  今日も朝から妻に叱られてしまった。まあ、いい。これも日課の一つだと思えば済む事だ。あれから二年、妻も元気になったという事だ。 

  さて、今日の僕は色々とやっておくべき事がある。妻は今日、明日、あさってと福岡に出張で日曜の夜まで帰ってこない。僕はこの週末で片付けておかなければならない、〆切の原稿が五本も!あるのだ。
  先日、体調が悪くて二日も仕事をサボってしまったからだ。

  しかし、仕事に取り掛かる前に様々な生活の雑事を片付けておかなければならない。
洗濯にアイロン掛けにトイレと浴室の掃除、日曜日までの食料調達にクリーニング屋にも行かなければ。

  僕は朝食をさっさと済まし、先ず洗濯物を洗濯機に放り込み、そして洗濯機が働いている間に、寝室と居間とトイレと浴室の掃除、それだけ済むと丁度洗濯機からお呼びが掛かる。僕は洗濯物をベランダに干し、陰干ししてあった妻のブラウスを取り込みアイロンを掛ける。それが終わると今度は、これからの三日間の生活で必要そうな物を全てピックアップしメモに書き出すと、僕は髭を剃ってシャワーを浴びてから外出着に着替え、家を出た。

  そして僕は駅前のいつものスーパーに行き、買い出しを開始した。

  食パンにバター、玉子、レタス、ベーコン、ハム、トマトにキュウリにニンジン、じゃがいも、牛肉、カレーのルウとローリエの葉、オリーブオイルにスパゲッティ、にんにく、バジル、アンチョビ、鷹の爪。そうそう、それと牛乳に白ワインに缶ビール一ダース。

  これだけのモノを買い揃えると、さすがに大量の荷物になったが、三日間家に籠ろうと思えばこれ位は仕方が無い。スーパーでの買い出しを終えると、今度はクリーニング屋に行き妻の仕事用のスーツをピックアップしてから、顔馴染みの蕎麦屋に行って遅い昼食を食べた。その後、大量の荷物を両手に抱え家に戻ると、先ず妻のスーツをクロゼットの中に仕舞い、買い出してきたモノ達をそれぞれの在るべき場所に帰してから、ベランダの洗濯物を取り込んだ。

  さて、ここからが僕の本業という訳だ。

  僕はパソコンの前に座り、書きかけの原稿に取り掛かる事にした。僕は気持ちを集中し、一気に一本の原稿を書き上げた。

  それから僕は一息入れる為に夕食を作る事にした。
今日と明日の夕食はカレーライスである。これなら明日の夕食を作る手間が省ける。
  僕は先ず、ご飯を炊き、食材を適当なサイズにカットし、大きめの鍋に食材をまとめてぶち込んだ。お湯が沸騰すると火を弱めて表面に浮いたアクを取り除き、カレールウを溶かし込み、少量の赤ワインを加え、最後にローリエの葉を入れて、後は弱火でじっくりと煮込む事にした。カレーを煮込んでいる間、有り物の野菜で簡単なサラダを作っておく。
後はカレーが美味しく出来上がるのを待つだけだ。

  僕はカレーが出来るまでの間、スガシカオのベストアルバムを聞きながら、白ワインを開けて待つ事にした。そして妻にメールを出した。

  「どう、調子は?今日の仕事はもう終わったの?」するとすぐに妻からメールが返ってきた。

  「おかげ様で順調よ。もう、今日の仕事は終わり。これから現地のスタッフと食事に行く所よ」
  「そう、それは良かった。僕はこれからカレーを食べるところだよ。とても美味しそうなカレーだよ。君に食べさせてあげたい位だ」
  「良かったわね、カレーが上手に出来て。今度また、作ってね」
  「ああ、もちろんだよ。あまり遅くならないようにね」
  「ええ、大丈夫、心配しないで」

  それはいつもと変わらない、簡単なやりとりだった。

  僕は携帯電話をテーブルの上に置くと、自分で作ったカレーを一人、食卓で食べた。

  「さて、残りの仕事をやってしまおう。今日のノルマはあと一本。一時位までには終わるだろう」と自分に活を入れると、再びパソコンの前に戻った。
  僕は一人静かな環境で仕事に集中する事が出来、原稿はちょうど深夜の一時まで掛かって、書き終えた。
今日の分の仕事を終えると、僕は歯を磨き、パジャマに着替えると読みかけの本を持って居間のソファに寝転んだ。

  ( 静かだ、とても、、、) 僕は試しにいつもより大きめな独り言を言ってみた。

  当然だが誰も文句を言う者は居ない。一人で住むには少しだけ広いその家で、今夜は僕一人なのだ。そんな事を思いながら、僕はいつの間にか眠っていた。

  ソファで眠ってしまった僕は、朝目覚めると、やっぱり一人だった。

  ( あたりまえか )と独り言を呟いた。

  僕はソファから起き出し、シャワーを浴びると簡単な朝食を一人分作って、食べた。
朝食が済むと、食器を片付け、パソコンに向かいインターネットを開いて、原稿を書く為に必要な調べ物をした。調べ物があらかた終わると既に午後の一時を廻っていたので、僕は昨日買ってきた食材を使って、昼食を作る事にした。

  よく冷えたトマトのサラダと、アンチョビとバジルのスパゲッティ、とオレンジジュース。

  昼食を食べ終えると、僕は再び原稿書きに集中した。
                     *
  僕が一本の原稿を書き上げ、窓の外を見ると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
僕は夕食にしようと思い、昨日のカレーに少しだけお水を足し、もう一度軽く煮込んだ。
僕は二日目のカレーは何故に美味しいのだろう?と思いながら、一人、さっさと夕食を済ませた。 

  何だか少しだけ寂しくなった。 

  それもそのはずである。この三年間、二日続けて一人で夕食を食べる事など無かった。妻が出張で二日も家を空ける事は無かったし、どんなに仕事で帰りが遅くなっても二日続けて夕食をバラバラに摂る事は、二人の暗黙のルールというか何となく避けてきたのである。

  それぞれがそれぞれに独立して仕事をし、お互いに余計な詮索はせず自由に生きる。

  それが僕達の間に自然に出来上がったルールではあったが、しかしそれは相手の事を何も考えずにお互い好き勝手に生きる、というような意味では無い。少なくとも僕はそう思っている。
お互いの価値観というものが大きくズレてしまわないように、出来るだけ夕食は一緒に食べる。例え会話が無かったとしても、人は人と一緒に食事をするという事に大きな意味があるのだ。そして家族とは日々、一緒に食事をするからこそ家族たり得るのだ、という事を僕達は知っている。

だから、妻の居ない食事は寂しくても当たり前なのだ。

僕は妻にメールしてみる事にした。
  「お疲れさま、今日はどうだった?忙しかった?」

  僕は暫く待ってみたが、妻からの返信は無かった。まだ仕事の最中なのだろう、と思う事にした。
僕は食器を片付けた。そして少し夜風にでもあたろうと思い、近所を散歩する事にした。夏の夜の風は、乾いた僕を優しく包んでくれた。

  少し歩いたところで黒猫が急に僕の前に飛び出してきた。その猫はちらっと僕の方を見てから前方を向き直し、僕の二メートル程前をテクテクと歩き出した。彼もきっと夜のお散歩なのだろう。僕は少し嬉しくなってその黒猫の後をついて歩いた。そして、昔僕がまだ小さかった頃に好きだった絵本の事を思い出した。

  タイトルは「ヨルネコサンポ」。

  その絵本の中でも、主人公の男の子が夜、一人で散歩をしていたら黒猫と出会って一緒に散歩する、というものだった。 確か、こんな詩が付いていた。


    ヨル  ネコノサンポ    クロ  ネコノサンポ    コッソリ  ネコノサンポ

  サンポ    サンポ    サンポノサンポ     ヨル  ボクトサンポ    ネコ  ボクトサンポ    ユックリ  ボクトサンポ  

  サンポ    サンポ    サンポトサンポ     ヨル  ネコガキエル    クロ  ネコガキエル    アッサリ  ネコガキエル  

  キエル    キエル    キエルガキエル     ヨル  ボクモカエル    ネコ  ボクモカエル    ヒッソリ  ボクモカエル  

  カエル    カエル    カエルモカエル
  僕は「ヨルネコサンポ」の詩を口ずさみながら、黒猫の後をついて行った。しかし二、三十メートル程黒猫について歩いていくと、急に黒猫は僕の方を振り返り、そしてピュイッと細い脇道に入って消えてしまった。

  そして僕はまた一人きりになった。

  それから僕は妻と出会った日の事を思い出した。なんだかんだ言っても、もう三年半も一緒に過ごしてきたのだな、と思った。

  あれから僕達の間は何か変わっただろうか?

  一緒に住むようになって、僕も妻もお互い忙しくなり、収入は増えたがその分一緒に過ごす時間はずいぶんと減った。最近では会話する時間もずいぶんと少なくなり、昔のように自分の事や相手の事をいつまでも話し続ける、というような事も無い。ただ、必要な事を報告し合っているだけのように感じる。
もちろんそれはそれで構わないとは思う。それぞれにはそれぞれにやるべき事があり、考える事がある。それぞれは、次第に仕事の責任も増えていき、人付き合いも増えていく。そして、それぞれにはそれぞれの時間の進み方があって、変化もしていくのだ。

  しかし僕達は本当にこの三年半、いやこの二年間、真剣に向き合って話をしてきただろうか?
少なくとも「あの事」があるまでは、もっとお互いの事を話し合ってきたはずだ。あの事があってから僕達はお互いの事を真剣に話し合う事を避けて生きてきたんじゃないだろうか。
僕達はお互いの感じ方や価値観というものが、本当に一つの方向に向かって進んでいるのかどうか、もっと話し合うべきなんじゃないだろうか。
僕達はその事から目を背けてきてはいないだろうか。 ただ、一緒にいるだけの為に。

  僕は家に戻るともう一度妻にメールをした。

  「お疲れさま。今日は忙しかったの?体調は大丈夫?」と。
すると今度はすぐに妻からメールが返ってきた。
  「うん、今日は何だか疲れたわ。もう、へとへと、、、」
  「あまり無理をしないで。今日は早く休みなね」と僕も返事を返した。

  しかしそれに対して妻からのメールは無く、僕は暫くの間返事を待ったがそれきり返事は来なかった。

  僕は何だかいやな予感がした。
妙に心がザワザワするのだ。いつもだったら妻の素っ気ないメールには慣れているし、別段イライラするような事でも無い。しかし今日に限って、何故だか変な胸騒ぎがした。

  ここ最近、妻は仕事が忙しいらしく、いつも疲れていて僕に対して妙にイライラしていたように感じてはいた。
二人の間にはロクに会話という会話も無く、すれ違いの日々が続いていた。ここの処、出張もやけに多い。
以前からも出張はあったが、これ程頻繁では無かった。しかも出張とは言っても大概は日帰りで、たまに電車とか飛行機の関係で一泊する程度だった。二日続けて家に帰ってこないなんて、あり得なかった。

  先日僕が見た馬鹿げた夢のせいで、僕は少しナーバスになっているだけかもしれない。

  僕はもう一度だけメールをしてみて、それでも返事が無かったので思い切って電話を掛けてみる事にした。いくらなんでももう、十一時を廻っているのだ。さすがに仕事は終わっているだろう。もし、kinki kids のコンサートがあったにせよ、それも終わってホテルに帰っている頃だろう。
僕が電話を掛けると、七度目のコールで妻が電話に出た。

  「ああ、あなた?どうしたの?」
  「どうしたのって?さっきから何度もメールしてるのに返事が無いから心配していたんだよ」
  「ああ、そうだったの。ゴメンなさい、気が付かなかったのよ」
  「気が付かなかったって、、、まあ、いいよ。どうしたんだい?ひどく疲れてるみたいだね」
  「ええ、今日は何だかとても疲れたのよ。最後の詰めの段階で先方さんと予算の折り合いがつかなくて。もしかしたら今回の出張は全くの無駄足になるかもしれないの」

  「そうか、そうなんだ。まあ、そういう事もあるよ。まあ、気を取り直してさ。ねえ、明日、稚加栄の明太子を忘れずに買ってきてね。 ♪ メンタイコ メンタイコ メンタイコったらメンタイコ ♪」

  「ねえ、『まあそういう事もあるよ』なんて簡単に言わないでくれる?それに今、あなたのバカな歌聞いてる余裕無いのよ」

  「君こそ、そういう言い方って無いんじゃないかな。僕だって僕なりに君に気を使っているんだ。君が疲れていると思って、馬鹿な事言ったりして元気付けようとしてさ」

  「私はあなたとは違うのよ!毎日毎日アイロンの効いたシャツ着て、同じ時間に同じ電車乗って、上司には山ほど仕事あてがわれて部下には気、使って、出張に行けば行ったで取引先にペコペコ頭下げて。あなたみたいにふらふらと好きな仕事を好きな分だけ好きなペースでやってる人間には分かんないわよ」

  「なあ、ちょっと待ってくれよ。君の仕事が大変なのは良く分かるよ。でもだからと言って僕の生き方にまでケチつける事は無いんじゃないかな?僕だって僕なりに仕事のストレスはあるし、嫌な奴との付き合いだってある。確定申告だって自分でちゃんとやってるし、税金だってちゃんと納めてる。僕だってただ、ヘラヘラと生きている訳じゃ無いんだ。生活費だって半分は出しているし、家事だって半分以上は僕がやっているんだ。そういう言い方って無いと思う」 
アイロンの効いたシャツは僕がアイロンを掛けている、と言おうとも思ったが止めた。

  「もう、いいわよ。私達はそれぞれに仕事があって、それぞれのペースでやってきたんだし、お互い干渉しないでやっていけば良いのよ。ねえ、もうこの話止めよう。私本当に疲れてるし、明日も早いのよ」

  「君が言い出した事だ。それに干渉しないという事と相手に関心を持たないという事は全然違う。相手が疲れている時や困っている時にこそ、相手を気遣うというのが夫婦ってものじゃないのか」
  「あなたと今、夫婦論を交わすつもりは無いわ。ねえ、もう切るわよ」

  僕はそこで止めておけば良かったものを、つい頭に血が上って言ってはいけない事を言ってしまった。

  「ねえ、まさか君、若い男と密会してたりしないよね?」
さすがに kinki kids の堂本剛という名前は出さなかった。

  「、、、」
  「ねえ、どうなんだい?」
  「あなた、いつからそんな風に思ってたの?」
  「いつからって訳でも無いさ。ただ最近やけに泊まりの出張が多いし、僕に対しては
   何だかいつもイライラしているみたいだったからさ」
  「、、、あなたがそう思うんだったら、そうなんじゃない」
  「あなたがそう思うんだったらそうなんじゃないって、それはどういう意味なんだ?」
  「だから、あなたがそう思うんだったら、そうなんでしょって事よ」
  「ねえ、僕達は少しちゃんと話し合う必要があるみたいだ」
  「、、、」
  「君が東京に帰ってきたら、ゆっくり話をしよう。美味しい明太子を食べながらさ」

  ブツッ

  唐突に、そしてあまりにも一方的に電話は切られた。

  僕は非常に後悔していた。
勢いとは言え、僕はあんな事を今、持ち出すべきでは無かったのだ。僕はいつも最悪なタイミングで最悪な事を言ってしまう癖がある。今迄だって散々そうして大切なモノを失ってきたというのに。
でも、彼女にだって悪い処はあるんだ。明日になれば彼女も少しは冷静になって、落ち着いて話が出来るだろう。こんな事は今までに何度もあったんだ。だからきっと大丈夫。

  僕は、そう自分に言い聞かせた。

  それから僕は、気持ちをなんとか切り替えて残りの仕事に取り掛かろうと思ったが、その日に原稿が一行だって進む事は無かった。