「 カッパドキアとカッパドキアの風 」








  彼はその時、カッパドキアの奇妙な形をした岩の上にいた。  

  そこは日本の裏側、トルコ共和国。東京からはずいぶんと遠く離れた場所だ。
実際のところ、遠かった。物理的な意味としても心理的な意味としても。   フライト時間の五時間前に自宅を出た彼は、飛行機が成田を飛び立って約十二時間半後に、トルコ、イスタンブールのアタテュルク空港に到着した。その後すぐにメトロに乗り、深夜バスの発着場、オトガルに行ってアナトリア地方にあるギョレメ村行きのバスチケットを手に入れると、そのままバスに揺られ約十二時間をかけてこのカッパドキアに着いた。実際、三十一時間の旅である。
  彼は、カッパドキアの事を十年以上も前に職場の先輩に聞かされ、どうしても一度行ってみたいと思っていた。その時その先輩は彼に、
  「とても面白い所だから、生きている間に絶対一度は行っておくべきだ」と強く主張した。
  彼はそれ以来、ずっとカッパドキアという未知の世界に憧れ、それは彼の頭の中にこびりつく様にしてインプットされていた。

  先輩から話を聞いた三年後、彼はカッパドキアに行くチャンスを持った。しかしその時は、不運にもその願いを達することは叶わなかった。二十九歳の時に世界一周の旅をしていた彼は、イタリアにいる時にさあ、いよいよ船でギリシャに行ってその後にトルコに行くぞ、という時に、「トルコ、大地震!イスタンブールは壊滅的打撃、死者二万人越え?」というニュースが流れた。そのニュースを聞いた彼は、これはカッパドキアどころじゃないよなあ、と思ってその時は断念せざるを得なかったのだ。
  それから七年、遂に彼はカッパドキアに足を踏み入れることになったのだ。
  ギョレメ村に着いた彼は早速、ホテルに荷物を置き、バイクをレンタルしてパシャバーに向かった。そして遥か数億年前に出来たと言われるキノコ岩等の乱立する大奇岩地帯を訪れた。彼はその数億年前に出来たという、キノコの様な不思議な形をした岩の上にひとり座り、目の前に拡がるカッパドキアの風景とカッパドキアに吹く心地良い風を肌に感じていた。

  彼には、彼の眼前に拡がる始めて見るその奇妙な風景が、東京と同じ地球上のものとはとても思えなかった。本当に此処は地球なのだろうか、映画、『二〇〇一年宇宙の旅』で見たようなその風景は彼に、何処か遠くの惑星にでも連れ去られてきたかのような錯覚を覚えさせていた。その果てなく拡がる青い空が、そのピンと張り詰めた乾いた空気が、その遥か数億年前から運ばれてくる心地の良い風が、とにかく全てが普段東京で感じられるものとはまったく異質のものだった。こんな所が同じ地球上に、同じ時間に存在しているという事が彼には不思議に思えてならなかった。
  そんな風景をぼんやりと見ながら、彼は様々なことを考えるとも無く考えていた。

  この十年、本当に色々なことがあった。十年間勤めた会社を辞め、世界一周の旅をし、再就職して、その会社も辞め、今では自分のお店をやっている。たくさんの人と出会い、たくさんの人と別れ、その間幾つかの恋もした。良い事もあったし、いやな事もあった。だけど全体的に見れば今のところまあ、充実した人生だろう。そしてこの先にはどんな事が自分の人生に待っているのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、吹いてくる風の声に耳を澄ませていると、彼にカッパドキアの風が話しかけてきた。
  「どうしたんだい?何だか寂しそうだね」
  彼は答える。「そんな事は無いよ」
  「そうかい、それならいいけど」
  「うん」
  「何か悩みがあるなら相談に乗ろうか?」
  「うん、ありがとう。でも本当に大丈夫なんだ」
  「そうか、それなら良かった。じゃあ、僕は行くね。また」
  「うん、また」
  それきり、風の声は何処かへ去ってしまい、二度と彼に話かける事は無かった。
  彼は、目の前に拡がるカッパドキアの風景を見ながら、何処かへ行ってしまったカッパドキアの風に、彼の呟いた小さな言葉は、ポツンと宙に浮かんだまま、新しい風に吹かれて何処か分からない場所へ遠く運ばれていった。