「 かにぞうすい 」











  なんだか、体がだるい。

  その日は朝から体がだるくて、まるで動く気がしなかった。外の天気も曇っていた。昨夜は夜中の三時まで原稿を書いていた。幾つかの〆切が重なり今週は激しく忙しかった。しかし昨日、何とか全ての仕事をやっつけた。たぶん疲れが溜まっているのだろう。
  僕ももうすぐ四十歳である。あまり無理が利かなくなっているのだろう。とても悲しい事実である。
  妻はもう仕事に行ったのだろうか?いつもだったら僕が寝ていようが起きていようが、お構いなしに話しかけてきて、バタバタと出掛ける仕度をして家を飛び出して行くというのに、今朝はとても静かだったような気がする。

  僕はベッドを抜け出して、居間の方へ行った。
するとテーブルの上には、ベーコンエッグのサンドウィッチとオレンジジュース、それと体温計と風邪薬、保険証が置いてあった。

  一体、どういう意味だろう?僕は風邪だ、とでも言うのだろうか。おでこに手を当ててみる。熱いんだか熱くないんだか良く分からない。まあ、だからこそ、この世の中に体温計が存在するのだろう。
  僕は妻の作ってくれた朝食を食べながらぼんやりと考えた。自分が風邪なのかどうかを。しかし風邪であるはずが無い。僕はここ十年、風邪などひいた事は無いのだ。それに少しくらい熱っぽくても、そんなものは知らんぷりして生きてきたのだ。だから僕は、体温計が家の何処に仕舞ってあるかも知らないし、それどころか我が家に体温計が存在していた事すら知らなかったのだ。まあ、だからこそ体温計が出してあるのだろう。 

  「ふうむ、一体ぜんたい、僕は風邪なのだろうか」

  いや、僕は風邪では無い。断じて風邪などでは無いのだ。だから体温計なんて必要ないし、風邪薬も飲まないのだ。そう、決定した。
  そして僕は体温計と風邪薬と保険証はそのままにして、食べ終わった食器を流しの方に持っていこうとして立ち上がろうとすると、急に立ち上がったせいか頭と足元がフラフラした。それでもとりあえず食器を洗い、部屋の掃除をしようとしたところで、止めた。だめだ、掃除どころでは無い。やっぱり今日一日はおとなしくしていよう。 
  掃除と洗濯をちゃんとしておかないと妻に後から怒られるだろうか?いや、今日はそれどころでは無いのだ。体温計と風邪薬と保険証がテーブルの上に出してある位だから、今日一日位は家事をサボっても怒られないだろう、きっと。そう考えると、僕はそのまま寝室に戻り、もう一度ベッドの中に潜り込んだ。

  ( 僕は風邪なんかでは、断じて、無いのだ。だから体温計は使わない。ただ、ちょっと疲れているだけなんだ。だから風邪薬も飲まない。今日は少し眠いだけなんだ。だから保険証も必要ない )等と、ブツブツと呟いている内に、僕は眠ってしまった。

  そして僕はどうしようも無い夢を見た。
  くだらない、と言えばくだらない、くだらなくない、と言えば全然くだらなくない夢だ。しかしその夢は、ある一点を除いては妙にリアリティのある夢だった。その夢の中で僕の妻は浮気をしていた。

  妻は以前から僕に「出張で泊まりだ」とか「今日は会議で遅くなる」などと言って、僕に嘘をついては kinki kids のコンサートに行っていた。まあ、それ位はいい。
  いくら夫婦とは言っても、秘密の一つや二つ位は持っているものだ。そして、その夢の中でも妻は僕に嘘をついて、どうやら福岡で行われているkinki kidsのコンサートに行っていた。

  しかし、その後が問題だった。
  妻はコンサートが終わると、コンサート会場のすぐ近くにある、ある近代的な構造をしたシティホテルに入っていった。既にチェックインは済んでいるらしく、フロントで名前だけ告げると部屋のキーを受け取りエレベーターへと向かった。
  そして妻の乗り込んだエレベーターは十一階で止まった。妻は1104号室( いいわよ )の前で立ち止まり、キーを取り出し、部屋のドアを開けて中に入った。

  そして妻は部屋に入るとすぐに、持っていた黒い革の小さなハンドバッグと身に付けていたアクセサリー類をベッドサイドのテーブルの上に置いた。そして着ていた黒のショート丈のジャケットをハンガーに掛け、高さのある赤いサンダルをベッドの脇に脱ぐと、白いブランドロゴの入ったTシャツと細身の色褪せたローライズをベッドの上に脱ぎ捨てた。
  それから僕の知らない上下揃いの、ピンク色のステッチの入った黒いブラジャーを外し、ショーツを脱ぐとベッドの上に放り投げ、全裸になった妻はシャワールームへと消えていった。

  数分後シャワールームから出てきた妻は、バスタオルを胸に巻き、髪の毛を備え付けのドライヤーで乾かし始めた。するとそこで、部屋のチャイムが鳴った。妻がドライヤーを置いてドアのロックを外すと、そこに立っていたのは僕でさえ見た事のある、ある若い男が一人で立っていた。彼は部屋に入って来るなり、僕の妻を強く抱きしめた。

  僕の妻を抱きしめているその男は、日本中のファンが知ったら大変な騒ぎになるだろう、あの、堂本剛だった。「正直しんどい」の。

  何故?何故僕の妻とあの堂本剛がコンサート会場のすぐ近くのホテルの一室で抱き合ってるのだ? 僕の頭はひどく混乱した。

  そして堂本剛は、僕の見ている目の前で妻のバスタオルを引きはがし、妻の手を引いてベッドへと連れて行った。そして彼も服を全て脱ぎ捨てて、妻と一つのベッドへ潜り込んだ。

  僕の目の前で、だ。

  僕は必死で妻の名前を叫んだが、妻にはまるで聞こえていないようだった。それから僕は堂本剛を妻から引き離そうと試みたが、僕の両手は虚しく空を切るばかりだった。こうなったら二人の情事の現場を、ビデオカメラに押さえてジャニーズ事務所をゆすってやる。いや、それより東スポに高値で売ってやろうか、等と支離滅裂な事を考えているところで、突然僕は目を覚ました。

  僕は暗い部屋のベッドの上で暫くの間、ボーと夢の続きを見ていた。あの夢が本当のことだったら、どうなるのだろう、僕は妻に捨てられてしまうのだろうか?それは、しがないフリーのライターと日本中にファンを持つ「正直しんどい」の堂本剛だったら、僕だって堂本剛を選ぶだろう。そんな考えても仕方の無いことをうだうだと考えていると、居間の方から妻の僕を呼ぶ声がした。

  「ねえ、あなた起きてるの?」

  妻がいつの間にか帰ってきていたようだった。

  「ああ、起きてるよ」
  「じゃあ、こっちに来て一緒に夕ご飯食べようよ。夕食作ったからさぁ」
  「ああ、今行くよ」

  僕は、今見た夢のことは妻には黙っていようと思った。

  「ねえ、あなたの好きな、かにぞうすい作ったの。あなた何だか具合悪そうだったし。ねえ、熱、計った?」
  「いや、熱を計ると何だか風邪になるような気がして」
  「もう、本当に子供なんだから、薬も飲んでないでしょ」
  「ああ、薬を飲むと何だか風邪になるような気がして」
  「どうせそんな事だろうと思ってたから今さら驚かないけど。ちゃんと風邪、早く直してね」
  「僕は本当に風邪なんだろうか?」
  「さあ、私にだって分からないわよ。でも、風邪なんじゃない。ねえねえ、今日のかにぞうすい、どう?美味しい?」
  「ああ、とても美味しいよ。ありがとう」

  それは僕の具合が悪い時くらいしか作ってくれないかにぞうすいだが、妻の作ってくれる料理の中では僕の最も好きな料理の一つだった。

  「あっ、そうだ、私今週の金・土・日って福岡に出張なんだけど、あなた大丈夫かしら?」
  「えっ、福岡?あ、ああ、別に僕の事は心配しないで大丈夫だよ」
と言ってから僕は妻に、ねえ、と言いかけて止めた。僕はさっきまで見ていた夢の事を、妻に話そうかどうしようか考えたのだが、しかし止めることにした。

  それは妻の作ってくれた、かにぞうすいが本当に美味しかったから。