「 始まらぬ恋 」












  彼は思った。部屋に彼女の匂いが残っていなければ良いな、と。
 
  トオルとサチコは三年ぶりに二人だけで食事をしていた。それはトオルとサチコが別れて三年の月日が流れた事を意味していた。トオルとサチコは六年前に出会い、二年間交際を続け、一年間離れて暮らし、三年前に別れていた。
 
  初めはトオルの一目惚れだった。フォトグラファーを生業としていたトオルの前に、雑誌のファッションページのモデルとして出逢ったのが、仕事を始めてまだ間もないサチコだった。トオルがスタジオでテストシュートをしている時に、当時まだ高校生だったサチコが学校帰りに制服姿で、元気一杯に「おはよーございまーす」と言ってスタジオ入りして来た。その時のサチコの満面の笑顔にトオルは一目で惚れてしまったのだ。その時トオルは二十六歳でサチコは十八歳になったばかりだった。
そして二人が付き合うようになるまでには、それほどの時間を必要とはしなかった。

  トオルもサチコも出逢った瞬間に、お互いに共通する何かを発見することが出来たし、お互いがお互いにとって、必要な存在である事もすぐに分かっていた。

  二人はそれからたくさんの時間を共有し、お互いの価値観を分け合い、冬の寒い夜には肌を寄せ合って、それぞれの心の隙間を埋めていった。
二人の間には、一冊の本についていくらでも話すべき事はあったし、一つの料理についていくらでも語り合う事が出来た。二人にとって時間はいくらあってもそれは足りない位だった。トオルとサチコにとって二人が付き合う事になったのはごく自然で、当然のことのように思われた。
  サチコはトオルの写真を好きだったし、彼の仕事に対する姿勢を尊敬していた。トオルもまたサチコの持つしなやかな肢体と彼女の媚の無い笑顔がとても好きだった。そして、二年間付き合っている間に、二人の間には何一つ問題が起こる事もなかった。

  しかし、付き合って二年が経つ頃、トオルは彼にとって人生の大きな選択をしなければならない時期にさしかかっていた。その時のトオルはそろそろ二十九歳を迎えようとしていて、彼の心は、今後の人生をどう、創ってゆくべきか、それをしっかりと見つめ直す時間を必要としていたが、それと同時にサチコの事が気になっていた。彼は本当にサチコの事を愛していると、自分でも信じていたし、サチコも自分と同じ気持ちでいてくれていると、信じていた。

  トオルは高校を卒業すると東京の渋谷にある写真専門学校に入学し、卒業すると同時に、当時、彼が憬れていたフォトグラファーに師事して、この道に入った。そして三年間のアシスタント時代を経て、彼は独立した。
彼は、元々持っている感性に加えて、好きなことに対して努力することは、一向に苦にならなかったし、周りの編集者やスタイリストにもすぐに気に入られ、独立した後も順調に仕事を増やしてゆく事が出来た。

  しかしそれでも彼はいつも何かに悩んでいた。それは彼が思っていたよりも意外にスムーズにフォトグラファーになることが出来、そしてそのあとも仕事が順調だった為かもしれない。トオルは、自分は本当にフォトグラファーを職業にしたかったのか、自分はフォトグラファーに本当に向いているのか、自分は本当に撮りたい写真が撮れているのか、いつの間にか、ただ   メシの為の写真を撮っているのではないか、そんな考えがいつも彼の頭から離れなかった。

  彼が自分の職業を選択したのはまだ彼が十七歳の頃だ。周りの友人達は皆、部活だ、コンパだ、ナンパだ、と浮かれ、何も考えずに大学に進学することが当たり前だった時代に、彼は既に自分の生き方を決定させていたのだ。別にそのことを後悔している訳では無い。ただ、もう一度自分の人生を三十歳になる前にゆっくり考える時間が欲しくなっただけだった。

  トオルは一年間考えた末に、自分の考えをサチコに伝える決心をした。
ロンドンに行きたい、と。

  イギリスは彼がフォトグラファーを目指すきっかけとなった国だ。当時彼がまだ高校生だった頃、愛読していたI-Dという雑誌を生み出した街である。そこに出てくるモデルやファッション、ヘアメイク、そして写真に彼は素直に憬れた。
ロンドンで何かをしたい訳ではない。ただ、自分がフォトグラファーを目指すきっかけとなった場所で、ゆっくりと今までの自分の人生と今後の自分の人生を考える為に、ロンドンに行かなければならない。今、行かなければ僕は一生後悔するような気がする、と。 そして出来れば、僕を待っていてほしいと。

  その時サチコはまだ二十歳になったばかりで、大学に通いながらモデルの仕事を続けていた。仕事を持っているとはいっても、まだ大学生だった彼女にはトオルの考えや気持ちをそのまま理解するには若すぎたし、それ以上にトオルと離れて暮らすことを、うまく想像することが出来なかった。彼女もまたトオルの存在を愛していた。

  初めサチコは当然、そのトオルの考えを受け入れることは出来なかった。しかし、二人で何度もその話をしているうちに、次第にサチコはそのトオルの考えを受け入れるようになっていった。いや、受け入れざるを得なかったのかもしれない。サチコはトオルに、トオルがどうしても行きたいのであれば仕方がない、ただ、待っていられるかどうかは、自信がない、と伝えた。

  結局トオルはロンドンに行くことになった。そして結果的にはそれが二人の別れとなった。

一年が経ち、トオルがトオルなりの答えを持って東京に帰って来た時には、サチコの心には新しく好きな人が現れていた。彼らは離れている間も連絡を取り合ってはいたが、その物理的な距離は二人の間に心の隙間をつくっている事も、二人には分かっていた。
トオルが帰ってきた時に、サチコは好きな人が出来たことをトオルに告げた。トオルはサチコを責める術を持たなかった。彼が蒔いた種が二人の別れを育てたことを彼は知っていた。
トオルはサチコに、もう二度と自分から電話をすることは無いだろうと告げた。何故ならトオルは、サチコを愛していたから。

  しかし二人が別れてからしばらくの間、サチコは週に一度はトオルに電話をかけた。そして「元気?」と受話器の向こうからトオルに話しかけた。トオルには意味が分からなかった。彼女の方から別れを持ち出したのに何故、自分に電話をかけてくるのかが。しかしトオルの方に未練が無かったと言ったら嘘になるだろう。トオルはまだ彼女を愛していたし、声が聞けるだけでもトオルはうれしかった。だから、つい長電話になった。トオルにとって、そうやってサチコとつながっていられる事だけでもうれしい事だった。

  しかし、トオルの中では、何故彼女が自分に電話をかけてくるのかが、どうしても分からなかった。納得がいかなかった。しかしそれを確認することは、二人のこの、ささやかなつながりすらも失ってしまいそうな気がして、トオルにはどうしてもそれをする事が出来ずにいた。

  二人が別れてからふた月近くが経とうとしていた。相変わらず週に一度はサチコからの電話が鳴った。トオルはある日、このあいまいな関係にケリをつける事を決めた。トオルはサチコに、「なんで、電話してくるの?」と聞いた。サチコは、トオルの事が心配だから、と答えた。トオルが、「本当はまだ僕の事が好きなんじゃないの?」と聞くと、サチコはただ黙っていた。
  「でももし、ただの同情だったらもう電話してこないでほしい。僕はまだ君のことが好きだから。よけいにつらいよ」とトオルは言った。サチコはしばらくの間沈黙してから、涙声で「分かった、もう電話かけないね」と言った。
それが彼らの交わした最後の会話だった。

  それから三年の月日が流れた。

  ある夏の終わりの陽が沈みかける頃、トオルの携帯の着信音が鳴った。
  「ねえ、トオル君今、恵比寿にいるでしょう」電話の相手はサチコだった。
  「さっき、あなたを見かけたの。私がお茶してる前をあなたが通ったの。声掛けようと思ったんだけど、何だか怖くて声を掛けられなかったの。無視されたらどうしようって。でもやっぱりどうしても、声が聞きたくなって電話してみた。番号、変わってないんだね。元気だった?」
  「元気だよ。サチコさんは元気?」
  「うん、元気だよ。トオル君、今何やってるの?」
  「写真やってるよ。風景だけどね。サチコさんは?」
  「私は今は、友達の立ち上げたファッションブランドを手伝ってるかな。ねえ、今度会おうよ」
  「そうだね、そのうちにね」トオルは正直、あまり乗り気ではなかった。三年という月日は、トオルにとってはお互いの距離を遠く隔てる為には、充分な時間だった。

  この三年間、トオルは無我夢中で働いてきた。彼女の事を早く忘れたかったのと、ロンドンから帰ってきてもう一度、自分のために写真を撮ることを決めた彼にとって、この東京で写真家として生き残ってゆくことは決して容易い事ではなかったからだ。それがやっと最近になって自分なりの道筋を見つけかけたところだった。そう、色々あったのだ。色々と。
トオルは今更彼女と会って、思い出話をする気にはなれなかった。

  しかしそんな彼の気持ちを感じ取ったのか、サチコは、
  「ねえ、会おうよ。日にち決めよう。なんだかそうしないとこのまま一生会えなくなりそうだから。話したい事もたくさんあるし、私もあれから色々あったんだよ」
そうしてトオルは、サチコに押し切られるようにして、三年ぶりに一緒に食事をすることになったのだ。

二人はその夜、中目黒の目黒川沿いにあるオーガニックカフェで会うことになっていた。トオルの仕事の終わり時間が読めなかったので、彼の職場と自宅近くの中目黒にしようという事になったのだ。そこのお店は、以前トオルとサチコが付き合っていた頃、二人で何度か訪れたこともあり、深夜遅くまで食事も取れてお酒も飲める為、店内はいつもガヤガヤと雑然としていたので、二人にとっても気が楽なのだった。

  夜の九時過ぎに、仕事を終えたトオルがそのお店に着いた時には、サチコは既にお店に来ていてお店の奥のテーブルに一人で座ってトオルが来るのを待っていた。
二人はお店の中でお互いを発見すると、軽く声を掛け合い同じテーブルに着き、それぞれに飲み物や食事などの注文を済ませると、
  「元気だった?」
  「うん、トオルは?」
  「ああ、まあ元気だよ」
  「電話番号、変わってないんだね」
  「ああ、面倒くさいからね」
  「煙草、変わったんだ」
  「ああ、少し軽くした。サチコさん、髪伸びたね」
  「うん、もうずっと伸ばしてる」
とそんな風にして、それぞれの間に違う時間が流れていた事を確認し合うかの様に会話をした。
トオルは三年分、年を取っていたし、サチコもまた三年分の年を取っていた。
二人は、自分達の過ごしてきた三年分の出来事をそれぞれにかいつまんで話をした。そこまで深くない、でも決して浅くもない三年分の話を。話すべきことはたくさんあったようにも思えるし、何も無かったようにも思う。二人の間にはきちんと三年分の溝が出来ているのだ。トオルもサチコもその事をよく分かっていた。

  サチコの最終電車の時間が近づいていた。
  「そろそろ時間じゃない?出ようか」トオルが言った。
  「そうだね、今日は会えて良かったよ。ずっと気になっていたんだ」サチコが言った。トオルは何がそんなに気になっていたのだろうと、思ったがそれは口には出さなかった。支払いはトオルが済ませた。サチコは、「おごってくれるの?ご馳走さま」と、懐かしい笑顔で言った。
トオルが駅の改札口までサチコを送り、「じゃあ、仕事頑張りなね」と言うと、サチコは、
  「トオル君こそ頑張ってね」と言って、改札口を通り抜けた。トオルは何となく、もうこれでサチコと会うこともないだろうな、と思い、
  「さっちゃん、ばいばい」と言って、そのままサチコを振り返ることなく、駅を出た。

  トオルが駅前のコンビニエンスストアで翌朝の朝食を買っている時に、トオルの携帯の着信音が鳴った。
  「電車、乗り損ねちゃった」サチコだった。
  「えー、なんで?まだ時間あったじゃん」
  「さっきトオルが私のこと、さっちゃんて呼ぶから、なんだか懐かしくなっちゃって、涙が出てきて電車に乗れなかったの」とサチコが言った。トオルは、二人が付き合っている頃、サチコのことを「さっちゃん」と読んでいたのだ。
  「しょうがないなあ、とりあえず駅、出て来なよ。駅前のコンビニに居るからさ」
すぐにコンビニエンスストアにやって来たサチコにトオルは、
  「どうする?俺、明日早いからもう家に帰るけど、うち泊まってく?」と聞くと、サチコは、
  「うん、行っていい?」とトオルに聞いた。
  「ああ、いいけどすぐ寝るからね」
  「うん。家、この近くなの?」
  「ああ、ここから五分位かな」
  「ふーん、そうなんだ」

  トオルの自宅は、そのコンビニエンスストアからもう一度、目黒川の方に戻って代官山の方に歩き、少し脇道に入った所にあった。
自宅に着いたトオルは部屋のドアを開けると、サチコを部屋に案内しながら、
  「適当に座って。今、お茶入れるから」と言った。
それからやかんにお湯を沸かし、お風呂のお湯をためた。
  「うん、ありがとう。でも気、使わないでいいよ」
  「ああ、大丈夫だよ、お茶入れるだけだし」
  「ふーん、結構広いんだ」
  「そうでもないよ。前の部屋より少し狭いんじゃないかな」
やかんのお湯が沸くとトオルは、サチコと自分の為にジャスミンティーを入れた。
  「でも一人だったら充分でしょ」
  「まあね」
二人でそんな他愛も無い話をしていると、お風呂にお湯がたまり、トオルはサチコに、
  「お風呂入ってくれば?入るでしょ?」と聞き、サチコにパジャマ代わりのスウェットスーツとバスタオルを渡した。サチコは、「うん、ありがと。お風呂こっちだよね」と言って、バスルームに消えた。

  トオルはサチコがお風呂に入っている間に、少しだけ部屋を片付けながら、自分も風呂に入ったらすぐに寝よう、と思った。今更、彼女と親密な関係になることは避けたかった。サチコはどう考えているのだろう、トオルには彼女の考えていることが分からなかった。

  「あー、気持ちよかった」そう言いながら、サチコは濡れた体に胸から下をバスタオルで巻いただけで、トオルの居る部屋に戻ってきた。トオルは部屋の灯りを少し小さくして、「先に寝てていいよ」と言ってから、自分もお風呂に入った。しかし、なんだか落ち着かなくてトオルはすぐにお風呂を出てしまった。
トオルはお風呂から上がると、すぐにパジャマに着替えて、
  「じゃあ、もう寝るね」と言って、トオルは灯りを消した。「うん。」とサチコは小さな声で答えた。
ベッドは一つしか無かったので、当然のように二人は一つのベッドに寝ることになった。トオルとサチコは狭いベッドの中で少し距離をあけて、お互いに背中を向けて寝た。

  しかし、予想通りトオルはいつまでもうまく寝付くことが出来ずにいた。だいたい、そうなんだ。こうゆう時は必ず決まって眠れないんだよ、とトオルは思った。本当はこんな時はセックスでもしちゃった方が良く眠れるという事を、トオルも経験上分かってはいたが、かといって、トオルはサチコとセックスをする気にはなれなかった。
  「ねえ、寝た?」とトオルが聞くと、サチコは、
  「ううん、寝れない」と答えた。
トオルはサチコの体を自分の体の方に引き寄せ、唇を重ねた。サチコは特に抵抗もせずに、それを自然に受け入れた。それからトオルは彼女の頭を自分の右腕に乗せ、「おやすみ」と言った。サチコも「おやすみ」と言って目を閉じた。二人は、いつの間にか眠りに就いていた。


  その夜、トオルは奇妙な夢を見た。何だかよく分からない真っ黒い影のような存在に追いかけられる夢だ。トオルはその影から逃れるように必死で逃げている。そして、その影から逃れたところで、彼は仕事をしている。そして彼が働いている場所には必ずサチコの姿があった。
しかし何故かサチコにはトオルの存在が見えないらしい。トオルがいくら呼びかけてもサチコはトオルのその声に気が付かない。トオルがサチコに触れようとするとサチコは、ふっと何処かに行ってしまう。まるで二人の間には見えない透明な防音ガラスでも存在するかのように、決してトオルの声はサチコには届かないのだった。
すると、トオルを追ってやって来た先ほどの影が、トオルを発見し彼を捕まえようとする。トオルはそれを振り払ってまた、逃げ出して行く。

  最初に、トオルが勤めていたのは明治通り沿いにある、落ち着いた雰囲気のするカフェだった。トオルはそこで注文を取ったりコーヒーを運んだりするウエイターの仕事をしていた。そのカフェにはトオルとサチコの共通の友人もたくさん来ておしゃべりを楽しんでいた。
サチコは奥のキッチンでサラダを作ったり、サンドウィッチを作ったりしていた。トオルがサチコにいくら話しかけても、彼女はトオルの存在を無視するかの様に、ただ黙って、黙々とサラダやサンドウィッチを作り続けていた。すると、いつの間にかトオルを追って近くまでやって来た黒い影の存在に気付いた彼は、急いでそこのカフェを逃げ出した。

  そして次のトオルの職場は、中国の山奥にある銀色をした巨大なラジオ組立工場だった。そこは日本のメーカーのラジオを作っている工場で、トオルはその工場の中ではたくさんの中国人に混じって、ラジオの組み立ての最終的なラインを担当する部署にいた。
そのだだっ広い工場の中で、中国人は誰一人おしゃべりをする者も無く、テーブルに向かってただ黙々と目の前のラジオを組み立てていた。やっぱりその工場にもサチコの姿を発見したが、サチコにはトオルの姿が見えなかった。いくらトオルが声を掛けても、それはただ虚しく空中に浮かんではサチコに届くこと無く、冷たい床の上に沈殿していくだけだった。
トオルが仕方無く、黙々とラジオを組み立てているとまたしても影が現れて、トオルを捕らえようとする。トオルは再び逃げ出す。

  そして今度は、東京の何処か下町の銭湯でトオルとサチコは働いている。そこでトオルは開店前に男湯の床のタイルを、ブラシを使って一生懸命に磨いている。サチコは女湯担当で、彼女もまたブラシを使って一心不乱に床のタイルを磨いていた。
ここでもやはり、トオルは必死でサチコの名前を呼ぶのだが、サチコは一向に気付く様子も無く、タイルを磨き終わると何処かへ行ってしまった。
トオルはそこで、ついに影に捕らえられてしまう。
トオルはサチコに、「助けて、サチコ助けてくれ!」と大声で叫ぶのだが、それでもサチコは気付かずに何処か遠くへ消えて行ってしまった。トオルは必死でその影の手を振り払おうとするのだが、影はトオルの左手をしっかり掴んで離さない。
トオルが足元に目をやるとそこに一匹の猫がいた。
トオルが十年位前に飼っていた、ぶち猫の「ミュウ」だった。トオルは目でミュウに助けを訴えたが、ミュウはただじっとトオルの目を見つめているだけだった。そこでトオルは左手だけでなく、全身の身動きが取れない事に気がつく。彼は夢と現実の間を彷徨い、恐怖した。

  「カナシバリ、ダ」


  トオルは夢の世界から一気に現実の世界に引きずり戻され、意識は覚醒しているのだが、身体が動かないことをはっきりと認識した。部屋の暗闇の中に重苦しい異質な何かの存在を感じた。
暫くの間、彼は目を閉じたまま恐怖が過ぎ去るのを、静かに待った。そして少しずつ意識を整え、ゆっくりと目を開けると、そこでやっと左手と全身とが自由になり開放される事が出来た。そして暗闇の中にさっきまで存在した異質な何かは既に何処かへ消えていた。確かに何かが イたのだ。

  トオルの額には汗がじっとりと滲んでいて、まだ全身がこわばっていた。
トオルは今見ていた夢と現実に自分の身体に起こった事を、頭の中で反芻しながら暗闇の中で煙草に火を点けた。サチコはトオルの様子の変化に気付くことも無く、彼のとなりで穏やかな寝息をたてて眠っていた。煙草を吸っている間、トオルはサチコのその健全な寝顔を眺めながら暗闇に向かって煙草の煙を吐き出し、失われてきた時間について考えた。時計の針は決して戻らないのだ。

  煙草を吸い終えると、トオルは自分の右腕をそっと、サチコの頭の下から抜きとり彼女に背を向けて眠った。
  翌朝、トオルが目覚めた時サチコはまだ眠っていた。サチコは、その日は午後から出勤する事になっていた。トオルは朝いちで、撮影が一本入っていた。
彼は急いで歯を磨き、顔を洗って服を着替えた。そして、フィルムとカメラバッグの中身を確認すると、サチコに、
  「なあ、俺、仕事行くからさあ、鍵、ここ置いとくから出るとき鍵かけてポストに入れといて」と、テーブルに鍵を置きながら、声をかけた。ふいに起こされたサチコはすこし寝ぼけた声で、
  「うん、わかった。ありがとね、泊めてくれて」と言った。
  トオルは、「ああ、じゃあ行くね」と言って、部屋を出て行った。
                   

  その日の夕方近く、仕事が終わって部屋に帰る途中、トオルは考えていた。
  部屋に彼女の匂いが残っていなければ良いな、と。

  今まで、トオルが新しく知り合った女性と親しくなり、その女性を部屋に泊めて彼が先に部屋を出た場合、部屋に帰るとたいてい部屋がきれいに片付いていたりするのだ。彼の物を触り過ぎないように気を使いながらも、適度に散らかった物が整理されていたり、貸したパジャマがきれいにたたまれて、きちんとベッドメークされていたり、キッチンの食器がピカピカになっていたり、だ。

  泊めてもらった方からすれば、それは礼儀なのだし、それはそれで構わないのだが、たいがいそれに加えてメモ書きが置いてあったりする。
  「昨日はありがとう。楽しかった。よかったらまた電話してね?」みたいなやつだ。サチコを始めて自分の部屋に泊めた時も、やはりそうだった。彼女達は自分がこの部屋に泊まっていったことを事実として、その残り香をちゃんと部屋に付けてゆくのだ。僕はそういった女性の行為が決して嫌いではなかったが、でも今回のサチコの場合は別だった。もう、二人の関係は終わっているのだ。恋の初めならば、それもそれで良いだろう。しかし、二人の恋にもう始まりは無いのだ。
そんな事を考えながら、トオルは部屋に帰った。

  トオルが合鍵で部屋のドアを開けて部屋の電気をつけると、部屋はトオルが朝出て行った時と同じ様に散らかったままだった。雑然と置かれた雑誌や衣服はそのままで、ベッドも食器もそのままだった。ただ、貸したスウェットスーツだけがたたまれてベッドの脇に置かれていた。そして、そこにはメモ書きの存在も無かった。

  トオルは、ほっとした。サチコが自分の部屋に彼女の匂いを残して行かなかった事に。
彼女も分かっているのだ。二人の失われた時間はもう決して戻りはしないという事を。
もう、二人の恋は始まらない、という事を。