「 僕達の生活 」











  その日、妻が帰って来なかった。

  いや、正確に言うと、まだ帰って来ないのだ。夜の十二時を過ぎているというのに。
予定通りならば、今日は夕方六時三十分の福岡空港発の飛行機で帰って来ているはずだった。ならばとっくに家に帰って来ていても良いはずだ。遅くなるにしたって、連絡が無いなんて事は今まで一度だって無かった。

  僕は昨夜の電話の事が気になっていた。僕が電話で余計な事を言ったせいで、彼女はもう二度とこの家に帰って来ないつもりなのだろうか?いや、そんな事は絶対に無い。あんなのはいつもの事だ。僕も彼女もいつまでも引きずるようなタイプでは無いのだ。今までだって色々あったけれど、僕達は僕達なりに二人で上手くやってきたはずだ。  そうだ、昨日の電話のせいでは無い。
僕はそう、自分に言い聞かせようとしていた。

  しかしその事が原因では無いとしたら、妻は一体どうしたっていうんだ?

  僕はさっきから同じ事を何度も何度も考えていた。そしてもう十八回も彼女の携帯電話に電話していた。しかし、一向に通じないのだ。何度掛けてもクールな女性が電話に出て、同じセリフを同じようにくり返すばかりだ。 

  「オカケニナッタデンワハゲンザイ、、、」

  僕は今日程その声の持ち主に対して怒りを感じた事は無かった。
僕は暗い部屋の中を何度も行ったり来たりしていた。そして時々思い出したようにシャワールームを覗いたり、クロゼットの中を確かめたりベッドのタオルケットをめくったりして、妻の不在をあらためて確認した。もしかしたら彼女は僕とかくれんぼしているつもりなのかもしれない。しかし、そんなことは当然だがあり得なかった。

  十二時を廻ったところで僕はついに居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出した。
アパートを飛び出すと、外ではいつの間にか雨が降り出していた。僕は急いで部屋に戻り傘を二本持って再び外へ飛び出した。僕は家の近所中を、妻の姿を求め歩き廻った。きっと、彼女は帰って来ているはずだと僕は確信していた。
妻には他に帰る場所など何処にも無いのだ。しかし近所中を探し廻ったが彼女の姿は何処にも見当たらなかった。

  「そうだ、きっとあの公園だ。僕達が始めて出会った公園に違いない」

  二人で仔猫を拾った、あの公園。僕は急いでその公園までの道のりを全力で走っていた。
多分、よくあるドラマのように喧嘩した二人が、始めて出会った場所で再会し、そこで主題歌が流れ、二人は抱き合い、そして長い、長いキス。エンドロールが流れ、めでたしめでたし。というやつに違いない。

  しかし、僕の淡い期待はすぐに打ち消された。その公園に妻の姿は無かった。僕は公園中を探し廻った。でも探し廻る程の広さなど初めから無い事は分かっていた。一目見れば、彼女が居ない事などすぐに分かっていたのだ。
所詮、現実なんてこんなものなんだよ。ドラマのように上手くはいかない。
僕は駅の方に向かってトボトボと歩いた。もう、探す場所が無いのだ。
  雨はさらに強くなっていた。

  駅に向かう途中、駅前の交差点の横断歩道の所にうずくまっている人が居た。通りがかる人々が皆、その人を覗き込んでは足早に通り過ぎて行った。

  妻だった。

  雨の中、びしょ濡れになった妻だった。彼女はその両腕の中に何かを抱え込んでいた。
僕は妻の名前を大声で叫びながら彼女に駆け寄った。
  「どうしたんだ、一体?一体何があったんだ?」僕の声が震えているのが自分でも分かった。

  彼女は返事をせずに、ただ黙って僕の方を見上げた。そして両腕の中に抱き抱えているモノを僕の方に差し出した。 仔猫だった。 ぐったりとして既に呼吸を止めた仔猫だった。

  「この仔が、この仔が急に私の目の前に飛び出してきて、私の目の前でトラックに跳ねられたの!本当に、本当にすぐ目の前で!ねえ、動かないのよ、さっきから全然動かないのよ!!」妻はほとんど悲鳴に近い声で、僕に訴えた。

  通り過ぎる人々が、怪訝そうに僕達の事を見ては目をそらして去って行った。
彼女はそうして暫くの間、強く打ちつける雨の中を傘も差さずに地面にうずくまって泣き続けた。
僕にはどうする事も出来なかった。僕には妻に傘を差しかけて、ただその場所に一緒に居てあげる事くらいしか、、。

  妻が一度こういう状態になると誰にも、どうしようも出来ないのだ。僕は過去に一度だけ、彼女のこの様な姿を見た事がある。「あの時」も僕には何一つ出来る事は無かった。とにかく、辛抱強く待つしかないのだ。

  僕が以前に妻のこの様な姿を見たのは、今からちょうど二年前、彼女が父親を突然失った時だ。彼女は小さい頃に母親を病気で亡くして以来、ずっと父親と二人で生きてきた。
しかし僕と結婚してその約一年後、彼女の父親が交差点で信号待ちをしている時に、目の前で起こった交通事故の巻き添えになって、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。

  その時も、妻は一晩中父親に付き添い、告別式が終わった後も部屋に一人、引きこもって泣き続けた。そして、一週間が過ぎた頃、彼女は突然スーツを着て部屋から出てきたと思ったら、「会社、行ってくる」とだけ言って、家を出ていった。
その後の妻は何事も無かったかの様に平静を取り戻し、それどころか以前にも増して、精力的に仕事に打ち込むようになり、それからというもの彼女は日に日に逞しくなり、しっかりと自分の意見を主張するようになった。

  その時、妻は自分の肉親というべき人間を全て失ってしまったのだ。これで、彼女の家族と呼べる人間は僕だけになった。僕はその時に、誓った。

  決して彼女を一人にはしない、と。

  僕は彼女のそんな姿を二度と見たくは無かったのだ。  二度と、だ。
それなのに僕はまた、彼女に電話でくだらない事を言って、彼女を一人にしてしまった。結局、僕という人間は三年半も彼女と一緒に過ごしておきながら、彼女に何一つしてやれなかったのだ。
二人に降り注ぐ冷たい雨の中で、掛ける言葉も無く、ただ傘を差しかける事しか出来ない僕は、僕という人間を激しく憎んだ。

  それから、妻の気持ちが少し落ち着いてきたところで、僕は冷え切った彼女の身体を抱きかかえる様にして家に連れて帰った。家に着くまでの間、彼女は一言も喋らずに、その動かなくなった小さな魂を両手で抱きしめていた。

  僕は家に着くと浴槽にお湯をため、妻を風呂に入れた。そして彼女が風呂に入っている間に、仔猫の体をタオルに包み、僕達が初めて出会った公園に行くと、ツツジの植え込みの所にそっと埋めた。

  僕が家に帰った時には妻は既にベッドの中で、自分の体を小さく抱え込むようにして寝ていた。僕もさっとシャワーを浴びてからパジャマに着替えて、彼女を起こさないようにベッドに潜り込んだ。
彼女はもう眠っているのだろうか?
彼女の身体が微かに震えているのが分かったが、僕も妻も交わす言葉を持たなかった。
真夜中、僕がうとうとしかけた頃に、妻が僕の背中にしがみついて声を殺して泣いているのが、分かった。それでも僕は、掛ける言葉も無ければ、してやれる事もやはり何も無かった。ただ背中を貸してあげる事くらいしか、、、。

  いつの間にか眠っていた僕が、朝、目を覚ますと、妻は既にスーツに着替え化粧をして出掛ける処だった。

  「ねえ、あなたもう起きたら?朝食作ってあるから食べてね。それから悪いんだけどスーツケースに入ってる私のシャツとスーツ、クリーニングに出しておいてくれる?
あっ、あと買い物も。私もうすぐ生理になりそうなの、だからいつものやつもよろしくね、羽根の付いてるやつ」
  「ああ、分かったよ。ありがとう」僕は羽根付きのチャームナップ・ミニなら、いつでも準備してある事は黙っておいた。

  「じゃあ、行ってくるわね。今日は一緒に夕食食べられると思うから。じゃあね」

  バタン!

  彼女はいつも通り、いや、いつもよりすっきりした様子で会社に出勤して行った。
僕は思った。 
こうして僕達の生活は続いていくのだ、幾つかのルールと幾つかの問題、そして幾つかの秘密を抱えながら、と。

  僕は妻の用意してくれた朝食を食べ終わると、食器を洗い、彼女に言われた通りスーツケースの中身を出しておかなければと思い、寝室に行ってスーツケースを開けた。
スーツケースの中には、しわくちゃに畳まれた何枚かの白いブラウスとライトグレーのパンツスーツが入っていた。そしてそのスーツの下には、稚加栄のからし明太子が一箱、そっと置かれていた。