「 ある日のメール ( 絵文字について ) 」











  それは、出張中の妻からのメールを受け取ったことから始まる。

  メールの内容自体は至って普通の内容である。しかしそのメールの最後に付けられた絵文字のことが、僕にはどうにも気になってしまったのだ。

  それは、お椀が二つ並んでいるモノの片方から水滴のようなモノがぶら下がっている、というものだ。それはもちろん悲しさを表現する為の、瞳から涙が落ちようとしている絵文字であること位は僕にだって分かる。しかし、少しだけ視点を変えて見てみると、それはまるで女性のオッパイから母乳がたれている様にも見える。
  それで僕は本当に軽い気持ちから妻に、
  「このオッパイから母乳がたれている絵文字は一体、何なのだ?」というメールを返信した。

  しかし、その事が後々僕にとって重大な事態に発展することになるとは、夢にも思わなかった。あくまでも僕にとって、ということだけど。

  妻はすぐに、
  「どうしたらそんなやらしい見方が出来るの?悲しさを表現する為の絵文字に決まっているじゃない」と返してきた。そこで僕は、
  「なんだ、そうだったのか、僕はてっきり妊婦が母乳を出しているのかと思ったよ」と返信した。すると今度は、
  「あなたって、本当にバカね。付き合いきれないわ。そんなやらしい人にはもう私のオッパイだって見せてあげないから!」というメールが返ってきた。僕はそんな事になったら大変だと思い、慌てて、
  「ゴメン、ゴメン、冗談だよ。だからオッパイを見せないなんて、そんなむごい事は言わないでくれ」と返した。しかしその後、妻からの返事は返ってこなかった。

  僕は、また馬鹿な事をしてしまったと非常に後悔していた。僕の人生にとってオッパイを見れないなんて事はそれこそ一大事である。それに見れないだけでなく、もしかしたら触らせてもくれなくなってしまうかもしれない。僕はそう思ったら、居ても立ってもいられなくなり、その後、何度も謝罪のメールを出した。しかし妻からの返事は一向に返ってはこなかった。

  僕は仕方なくあきらめて、予約を取っていた歯医者に行くことにした。
  僕はどうやら虫歯になり易いらしく、もう三ヶ月近くも歯医者に通い続けていた。
  僕は歯医者という所がそれ程嫌いではない。僕はいつも ( ああ、僕の虫歯は今、削られて何処か遠くへ旅立って行くのだなあ ) とか、 ( この歯科衛生士の女の子と先生はデキてるのかあ ) とか、 ( 歯医者さんて変態が多いって言うけど、この先生もやっぱり変態なのかなあ ) 等と、くだらない事を考えながら歯の治療を受けているのだが、それはそれで楽しい時間でもあった。

  しかし、その日に限ってはまるで歯医者さんに気持ちを集中することが出来なかった。
  僕は、たいして可愛くもない歯科衛生士の女の子に唾液をジュルジュルと吸引されながら、四十過ぎの歯医者のおじさんにウィーン・ウィーン、ガガガ、ゴーリ・ゴーリとやられながら、( どうしよう、妻が本当にオッパイを見せてくれなくなってしまったら。
  そんな事が僕の人生に起こるなんて、なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう、なんとか許してもらわなくては僕の人生は台無しになってしまう ) 等と、妻の最後のメールについてずっと考えていたのだ。

  歯の治療が済むと、僕は幾つかの用事を済ませてから家に帰った。
 
  その夜、僕は一人で夕食を食べ、風呂に入り、その間もずっと妻からのメールを待った。妻は、今日は出張先の大阪に一泊する予定になっていた。しかし一向に妻からのメールが届く気配は無く、僕の携帯電話は沈黙を守ったままである。仕方なく僕は妻に怒られる事を覚悟して、電話を掛けてみる事にした。

  すると妻は思ったより早く電話に出て、
  「ああ、あなた。どうしたの?」と言った。僕は、
  「お疲れさま、今日はどうだった?」と聞いた。すると妻は、
  「うーん、まあまあかな、」と答えた。
  「ねえ、昼間の事、怒ってる?」
  「えっ、何の事?」
  「メールの絵文字の事だよ」
  「ああ、あなたまだそんな事言ってるの?本当に暇な人ね」
  「いや、これは暇とか暇じゃないとか、そういう問題じゃないんだ。これは僕にとっては死活問題に等しいんだよ」
  「オッパイを見せるかどうかが?」
  「そうだよ、これはとても大切な事なんだ」
  「あなたってよっぽど、バカね。本当にあきれるわ。あなたがそんなにやらしい人だとは思わなかった。もう、絶対にあなたには私のオッパイは見せてあげないから」
  「ちょっ、そんなあ、そんな事になったら僕は一体どう生きていけばいいんだ」
  「誰か他の人に見せてもらえば良いじゃない」
  「頼むよ、そんな事言わないでくれ。君のじゃないと駄目なんだ。本当にただの軽い冗談だったんだよ」
  「そんなの知らないわよ」
  「ねえ、それに見せてくれないって事はもしかして、触らせてもくれないって事なのかい?」
  「バカ !」そう妻は怒鳴ると電話をブツンと切ってしまった。 プー、プー、プー、

  僕は暫くの間、呆然とその場に立ち尽くしていた、受話器を持ったまま。

  ( どうしよう、本当に彼女を怒らせてしまった。もし彼女が言った事が本当だったら僕はどうすれば良いんだ。ああ、このままではもう、今夜は眠れそうも無いぞ )と、僕はいつもより少し大きめな声で独り言をブツブツと言った。

  僕はその後も何度か妻に電話を掛けてみたが、妻はそれきり電話には出てくれなかった。
  僕はあきらめて部屋の電気を消し、ベッドに潜り込んで、これからの人生について考えた。
  ( ああ、やっぱり今夜は眠れそうに無い ) ブツブツ。
  僕は妻のオッパイを想像してみる事にした。
  ( あれ?どんなだっけかなあ? ) ブツブツ。
  改めて思い出そうとすると、案外ちゃんと覚えてないものだ。
  ( 垂れてたっけ?それとも尖ってたかなあ? ) ブツブツ。


  僕は必死で妻のオッパイを思い出そうとしているうちに、いつの間にか深い眠りに堕ちていた。